Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」5-7 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

一人の修行者は、どこに向かって『信根』を探すべきか?

『ソータパナ果』の四種類の構成要素において、探すべきである。(《相応部》大品、根相応第四、応観第八経)。

上記は、「信根」が「ソータパナ果」の四種類の構成要素をコントロール(制御)したのだ、という意味を持つ。

この四種類の構成要素とは:

1、仏陀の神聖なる特質に対して、たとえば、「阿羅漢」「正等正覚」などについて、不動揺なる信仰(=信頼と敬い<注1>)を備える。

2、法の神聖なる特質に対して、たとえば、「善説法者」など、不動揺なる信仰(=同上)を持つ。

3、僧侶(=僧個人)の神聖なる特質に対して、たとえば「妙行者」など、不動揺の信仰(=同上)を持つ。

4、「出世間禅定」の「最近因」を円満具足する。

この四種類の要素は、一人の修行者が一生のうちに「ソータパナ果智」を証得する事を保証する。

訳者注1:日本語の「信仰」は、<迷信を信じる>という意味に取られる事が多いので、本来の意味である<信頼と敬い>とした。

(5-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledeī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-6 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「定根」と「慧根」は、界定に相当する(原文不明瞭につき、意訳)

「四念処」の修行の対象において、たとえば、呼気・吸気に安住する時、「定根」は、心霊の不安を解消し、「慧根」は混乱と不確かさを解消する。

「信根」「精進根」「念根」は「定根」及び「慧根」の先行的修行であり、ちょうど国王が王位に登るのを援けるが如くに、「信根」「精進根」「念根」は「定根」及び「慧根」を援けて、最高の成就を証得せしめるのである。

「身念処」の安立と、心霊の主宰(=コントロール)が出来るようになった後に、もし「禅定」の道に進んだならば、「定根」は八正定に変り、「慧根」は五神通、たとえば、超自然的な神変の能力に変る。

もし、「直観(=vipassana)」の道に向かうならば、「定根」は「空禅定」「無相禅定」「無願禅定」になり、「慧根」は「五智慧清浄道」(すなわち、見清浄、度疑清浄)になる。そして、「見清浄」から始まって、その後に「三随観智」「10直観智」「四道智」「四聖果」「19観察智」(《清浄道論》第21、22章、参照の事)。

ここにおいて、我々は、五根は、如何にして共に発生するかを説明した。

次に、一根ごとの、それが形成される要素を説明する。

(5-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-5 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「業処」の修行において、「身精進」と「心精進」を具備する修行者だけが、迅速なる精進を得ることができる。

「身念住」に安住するその刹那から始まって、日ごとに精進を開発するならば、それは「修習精進」であり、この種の精進は、「37道品」では、「精進根」と呼ばれる。

それは「業処」の修行において、懈怠の解消であり、熱情とエネルギーの出現を意味する。

心が対象に力強く安住する時、修行者に快感が生じる。

故に、「修習精進」に安立する事、及び逐一的に発展する事は、「信根」と同じなのである。

「37道品」の中において「念根」は、諸々の、たとえば、呼気・吸気の身体部分において、「出世間的正念道」を証悟するまで、「身念住」に安住し、「修習念」を開発する事を意味する。

(5-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

FDC資料「37道品ハンドブック」5-4 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

如何なる修行においても、修行者本人が実践し、かつ早急に掌握して初めて、適切な修行であると言える。

もし、修行が修行者を掌握する(=修行者の負担になる)ならば、それは適切ではない。

いわゆる「修行が修行者を掌握する」とは、修行の過程において、エネルギーが枯渇し、具体的な成果もなく、何日も無駄にしたあげく、身体に不快な現象が起き、最後には懈怠になる事をいう。

懈怠が出現すると、修行は進まず、修行が進まないと、一層懈怠に嵌る。

そして以下のように思う:

「修行の形式を替えよう。」

こうして、常に、修行の形式を替えるようになる。

これを、修行が修行者を掌握する状態、と言うのである。

(5-5につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-3 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「精進根」とは「精進」の事で、合計二種類ある。

1、自然精進

2、修習精進

また、別の分類方法では、

1、身精進

2、心精進。

「自然精進」は容易に理解することができる。

たとえば、世間的な事柄に対して、特異な「自然精進」を擁するならば、容易に「修習精進」を得ることができる。

常乞食支、常坐不臥支、樹下坐支、露地坐支、塚間住支等の頭陀苦行とは、すなわち、「身精進の修習」に当たる。

もし「身精進の修習」に安住する事ができたとして、たとえば、短時間の睡眠、かつ目覚めた心を持ち、気力に溢れていても、それは「心精進」とは言わない。

たとえば、心において熱情的に以下のように作意する:

呼気・吸気の「業処」の対象において、安定的な専注に到達できない、また、修習の期間、退屈で長い、心霊と覚知の上で、なんらの明晰も得られない(+と反省したとしても)。

(5-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-2 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「信仰」は一般の人々を、布施、戒律(+の守護)、初級的な禅定、色々な実践に導くことができるが、これを「自然信」と言う。

この種の「信仰」は、禅定の修習程には、一般の人々の心に安定を齎すことはできない。

「信仰」に欠ける一般の人々の心は、決して善業に転向する事はなく、反対に邪行の中で喜びを感じるのである。

(原文一部意味不明につき、略)

「戒律清浄」の実践・修行と、経典の研究に関しても、同様である。

止観の「業処」を修習する事において、「自然信」は、心霊(=心)をコントロール(制御)する事はできない。

というのも、心霊は、「信仰」のコントロール(制御)に対して、容易に反撃に出て、(+心を)他へ向かわせるが故に。

「業処」の修習には、「自然信」はあまり役に立たないのである。

「修習信」は、種が発育する温床である。

言い換えれば、修習の内に、たとえば、呼気・吸気という「業処」において、課題を修習するならば、巨大なエネルギーを得ることができる。

「37道品」の中では、「修習信」だけを、「信根」と呼ぶ。

「業処」の修習において、「修習信」とは心霊の揺れ動いて不安定なエネルギーが消失して、清明な、安定した心が生起する事を意味している。

心の専注力が清明になった時、そしてまた、迷わず、惑わない時、その時初めて(+心は)これらの対象に固着することができる。

「身念住」の修習、たとえば、呼気・吸気の「出入息念」は、「修習信」(+を持つための)前提的温床である。

もし、心が「身念住」の固着するならば、たとえば、呼気・吸気であるが、それは「修習信」を得たのだと言える。

しかしながら、もし「禅定」と「直観(=vipassana)」の範囲の内に修行を継続して、「身見」の三種類のレベルを打ち壊す能力を得たいと思い、適切に「禅定」と「直観」を修習したいと思うのであれば、彼らは、法に通達している導師に依止しなければならない。

(5-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』4-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

4、無間縁(Anantarapaccayo)

無間縁とは、縁法に属する名法であって、縁生法の名法の、それが滅尽した後、(+別の名法を)即刻生起せしめ、その他の名法がそれらの間に差し込まれる事のないようにする、という役割を持つもの。

これは、心の定法によって説明することができる。

心の定法ーー一個の心が生起して、その後に滅し、もう一つ別の心が即刻生起して、その後に滅し、もう一つ別の心が、相続して生起する。

これを無間縁と言う。

(4-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>