Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」5-12 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「一人の修行者は、どこにおいて『定根』を探し求めるべきか?『四禅定』の中において探し求めるべきである。」(《相応部》大品・根相応第4・応観第8経)

「禅定」の修習をする時、たとえば、呼気・吸気において、少なくとも「近行定」を証得する時、または、過去の輪廻げ原因で誘発された所の、心の不安定的な愛欲、瞋恚煩悩蓋が取り除かれたならば、「禅定」における専注力は、特別に安定し、非常に清らかになる。

これが「禅定」によって生起される(+心の)支配の功徳である。

「禅定」の修習において、この修行者は、すでに、内心の不安と動揺を解消しており、彼は、己自身の心を支配する事のできる修行者である、と言える。

(5-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

FDC資料「37道品ハンドブック」5-11 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「一人の修行者は、どこにおいて『念根』を探し求めるのか?『四念住』の四種類の構成要素において、探し求めねばならない。」(《相応部》大品・根相応第四・応観第8経)

凡夫と仏陀の比丘弟子は、ただ彼らが「四念住」の四種類の構成要素を完成させた時にのみ、「正念」の修行によって、彼らの内心の不安と動揺がすでに解消したのかどうかを、理解することができ、また、修行者自身の心をコントロール(制御)し得ているのかどうかを、知ることができる。

もし、「身念住」の修習を通して、専注力が、身体のどこかの部位に、随意に安住せしめる事が出来るならば、たとえば、呼気・吸気等、この事は、修行者が「正念」でもって、(+心を)コントロール(制御)できるようになったのだと言える。

(+この時)この修行者の心内の不安と動揺は解消しており、彼は(+己の)心を支配することが可能である。

(5-12につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』4-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

輪廻の過程において、この一生の生死から、次の生の生死まで、その過程は、常に無間縁であると言える。

輪廻の過程を見てみよう。

この一生において、我々は、非常に多くの善業を実践した:

布施、持戒、聞経、功徳の回向、奉仕など等。

臨終の時、もし、その中の一つの善業が熟したならば、ある種の相が出現する・・・たとえば、我々は、天神の影像(趣相と言う)を見る事があるが、これは、我々が往生する先が、天界である事を意味している。

通常の心路過程は、七つの速行心で構成されるが、しかし、臨終速行心は、五つしかない。

というのも、その時の心は非常に弱くて、ただ五つの速行心しか、生起する事ができないからである。

有分心は不断に生・滅する。過去有分心が滅すると、有分波動が生起し、有分波動が滅すると、有分断が生起する。有分断が滅すると、臨終心路が生起し、意門転向心は、心をして、天神の影像に向わしめる。

天神の影像は、所縁縁(一つ毎の心は、必ず一つの所縁に釘付けになる)である。

臨終の五つの速行心もまた、この天神の影像を所縁として取る。二つの彼所縁は、生起する事もあれば、生起しない事もある。

その後に、死亡心が生起する。

死亡心が滅すると、まったくの間断なく、次の一個の心――結生識または結生心と呼ばれる心が生起する。

結生心は、前世と今生をしっかりと結びつける。

結生識が滅した後、有分心が生起するが、有分心は合計16回、生・滅する。

(4-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-10 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「一人の修行者は、『精進根』をどこにおいて、探せばよいであろうか?

『正勤』の四種類の構成要素において、探すべきである。(《相応部》大品、根相応第四・応観第8経)

凡夫と仏陀の比丘弟子は、ただ彼らが「正勤」の四種類の構成要素を完成した時にのみ、「精進」の修行の上において、彼らの心内の不安と動揺は、すでに解消したかどうかを、理解することができ、その事(=精進する事)によって、(+己自身は)心霊をコントロール(制御)する事のできる修行者であるかどうかを、知ることができる。

「私の皮膚、筋肉、骸骨が枯れても、私の身体内の血肉が枯れても、私はこの一生において、私の人格の中の身見、悪行、苦界が打ち壊されるまで、私は(+修行を)放棄しない。」

これは一種、簡単な決断と「正勤」における努力に相当する。

護眼尊者(Cakkhupāla《法句経》第一偈注)は、まさにこの努力・精進に依ったのである。

一人の修行者が、この種の決断と努力に対応する時、「精進根」による、心に対する、優勢とコントロール(制御)の主権(=力)を認識する必要がある。

「精進」における修行では、この種の修行者は、すでに己の心の不安と動揺は、解消している:

仏教の中において、この修行者は、己の心霊(=心)を支配する事のできる修行者であると言える。

(5-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-9 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「世間禅定の基礎ーー戒清浄」は「活命戒」(八関斎戒)を言う。

この種の戒・律は、一人の修行者を、今生において、「世間禅定」を証得せしめる。

この種の戒・律を持戒して清浄であり、破壊されていない時、修行者は、貪・瞋・痴の汚染から解脱する事ができる。

故に、一人の修行者にとって、信仰は、戒・律の内においても突出しているものである事を知らなければならない。

戒・律の、この種の必要条件を、観察できない事を「破戒」と言う。

技術的に、この種の戒・律が破戒されていないとしても、もし、普通の一般的な条件に基づけば、(+破戒は)「不浄」であると言える。

俗に言う:

「河から上がって初めて、牡牛の価値が分かる。」

凡夫と仏陀の弟子に付いて言えば、ただ、彼らがこの四種類の構成要素を完成した時に初めて、彼らの内心に隠された動揺、散乱が、消えたかどうかが分かるのである。

言い換えれば、その時初めて、彼らは己自身の心霊をコントロール(制御)し得ているかどうかが、分かるのである。

(5-10につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

般若の独り言~坊ガツルまで

題は「坊ガツルまで」ですが、実際は、坊ガツルの入口まで・・・です(笑)

朝起きて、「37道品ハンドブック」の翻訳を済ませて、さて、登山に。

目的地は<坊ガツル湿原>

九時に車を出して、到着したのが10時。

いや~、もうすでに、暑い。

私の住居地は寒冷地につき、朝夕はまだ厚手のセーターが手放せないくらい寒いので、つい、油断しました。

4月の午前10時が、こんなに暑いなんて。

そういう事を知っている山男、山女はもうとっくに山を登っていて、登山口でうろうろしているのは私一人。

その上、時計を忘れて来て、まずい事に、足元はスポーツタイプのサンダル。

登山口で登山靴に履きかえるつもりでいたのに、靴を車の中においたまま(我ながら、そそっかしいなぁ)。

それで、坊ガツルへの登山道を少し歩いて、すぐ、戻って来てしまいました(いっちょ前に<入山届>書いて出して。あんまり意味なかった~苦笑)

帰路は、私の大好きな<高原の花屋さん>によって、寒冷地でも冬を越せそうなお花の苗を、少々お買い上げ。バラの苗一株、黄色い蔓バラ(陰の声~またまた蔓バラ買ってどうすんのよ!誘引するフェンスも壁も、もうないよ!)。

楽しみにしていた、やまなみハイウェイ沿いの、露天の八百屋は出ていなくて、道の駅に寄ってトマトを買って、精舎に戻ると11:30。

お留守番していたオハナを庭に出して・・・私はこれから温泉プールに行って、瞑想して・・・今日はこれでお終い!

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Paññadhika Sayalay 般若精舎>

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-8 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

仏陀に対して、絶対的な浄信を具備する」(《中部》第9《正見経》)

パーリ経典の中で、この部分にある、aveccapasādaは、「不動揺なる信仰」を指す。

この種の「信仰」は、我々が仏陀の神聖なる特質を憶念する時に証得する所の「近行定」である。

「近行定」とは、我々が仏陀の特質(「阿羅漢」)を憶念した時に、証得する所の、安定的、堅固な専注力をいい、それは入定しているのとよく似ている。

一人の修行者が、この種の、安定した専注力を体得した時、信仰は、主動的に優勢になる事を知る。

このような修行者は、仏陀の神聖なる特質を憶念する信仰のうちに、彼の心霊をコントロール(制御)する。

法、サンガの神聖なる特質への憶念もまた、同様である。

(5-9につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>