<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
「一人の修行者は、『精進根』をどこにおいて、探せばよいであろうか?
『正勤』の四種類の構成要素において、探すべきである。(《相応部》大品、根相応第四・応観第8経)
凡夫と仏陀の比丘弟子は、ただ彼らが「正勤」の四種類の構成要素を完成した時にのみ、「精進」の修行の上において、彼らの心内の不安と動揺は、すでに解消したかどうかを、理解することができ、その事(=精進する事)によって、(+己自身は)心霊をコントロール(制御)する事のできる修行者であるかどうかを、知ることができる。
「私の皮膚、筋肉、骸骨が枯れても、私の身体内の血肉が枯れても、私はこの一生において、私の人格の中の身見、悪行、苦界が打ち壊されるまで、私は(+修行を)放棄しない。」
これは一種、簡単な決断と「正勤」における努力に相当する。
護眼尊者(Cakkhupāla《法句経》第一偈注)は、まさにこの努力・精進に依ったのである。
一人の修行者が、この種の決断と努力に対応する時、「精進根」による、心に対する、優勢とコントロール(制御)の主権(=力)を認識する必要がある。
「精進」における修行では、この種の修行者は、すでに己の心の不安と動揺は、解消している:
仏教の中において、この修行者は、己の心霊(=心)を支配する事のできる修行者であると言える。
(5-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>