<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(原文P219)
禅修行者:
では、七覚支はどうでしょうか?
我々はこれらを検査・点検しなければならないのでは
ないですか?
禅師:
そうです。
七覚支は、因覚支と果覚支に、分けることができます。
あなたは因覚支、すなわち、念、精進と択法または般若の智慧だけを、点検すればよいのです。
あなたは特に、精進について、よく観察しなければなりません。
この三項目の中で、精進(+の点検)が一番難しいのです。
念と智慧に大きな問題ありません。
この二者は、必然的に善(煩悩のない状態)ですから。
精進は非常に面倒なものです。
煩悩と相応する精進は間違った精進であり、大部分の禅修行者は、心内に期するもの、求めるものがあって精進に励むのですが、その結果、彼らの精進には、煩悩が付きまとうことになります。
欲望には、二種類あります。
貪欲、これは不善の欲望です。
善法欲、これは善の欲望です。
あなたは必ずや、己自身は貪欲によって精進しているのか、それとも善法欲によって精進しているのかを、知らなければなりません。
貪欲で精進する者は、(+身・心の)緊張を齎し、次には(身・心が)苦しくなってしまいます。
欲望が達成されると嬉しくなり、失敗すると失望して、気持ちが萎えてしまいます。
もしあなたが、善法欲(善法欲とは智慧の伴った欲望であり、心霊~心~の成長を願うもの)でもって精進するならば、あなたは苦しむ事はないし、心は力、エネルギーを得ることができます。
この場合、目的地に到達しても、あなたは得意満面になる事はないし、成功しなくても、失望する事はありません。
これは正精進の結果であり、正精進のある時、あなたは決して(+修行を)放棄することはありませんし、努力し続ける事でしょう。
こうしたことから、不断にあなた自身の心を検査・点検する事、動機が正しいかどうかを点検する事は、非常に重要です。
疑問を訊ねる事と、問題を探求する事は、択法における支援になります。
《念住経》の註釈によりますと、禅の修行者は、一つの覚支毎に、四つの問題を提起するべきだと言います;
例えば、禅修行者は、どの様な時に念覚支が存在しているか、どの様な時には存在していないか、なぜ存在するのか、最後の一つに、どの様にすれば、念覚支は成長するのかを、必ず知っておけなければなりません。
一つ毎の問題点は、異なるレベルの理解(+の内容)を反映しており、ある種のものごとが存在しているかどうかを確認する事は難しくありませんが、しかし、後ろ二者には、多くの異なった答えが考えられる為、この二つのレベルへの理解は、難しいものがあります。
己自身が己自身に、この問題を問い、己自身で答えを出すように、チャレンジしてみて下さい。
その後で、他者と討論します。
こうすれば、あなたの智慧の成長を、促すことがでるでしょう。
この種の検査・検討・研究は、択法が生起する為の、必要な要素の一つになります。
(Lにつづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>