Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~<0>のパワー?

『禅修指南』の翻訳に、ゴールが見えてきました。

520頁の大部で、二、三年かかると思っていましたが

(開始時は、一日一ページ、ゆっくり翻訳するつもりでした)、今回、単語登録機能を駆使した事もあって、3,4か月で終了しそうです。

私は(自分の年齢に) 0 と 5 のつく年に、よい事が起こる事が多いのですが、70歳の今、『禅修指南』という貴重な仏教書を翻訳する機会を得、智見尊者ご一行を迎えての法話会の設定(6月21日、湯布院福祉センター)、来春の本雅難陀尊者の招請準備など、やはり<0>のお蔭かな?な~んて思っています(神通がないので、そんな感じがするだけで、実情は、よく分かりません~笑)

仏教書の翻訳をしていると、

「自分はまだまだ、何も分かっていないなぁ」と思い、

「修行しなければ!!」と、強く思います。

翻訳は、仏法への理解が深まり、また波羅蜜も積め、自利利他でもあり、なかなかよいものですが、『禅修指南』の翻訳が終わり、「顕正蔵法」の残り部分も終われば、来年より、もう一つ別の自利利他、修行生活に入りたいと思います。

仏陀の教えの肝要は実践、修行にあり・・・

真の自利利他は、修行と悟りの中にあり・・・

私はそう思うのです。

(過日、東京の在家法友から喜捨を頂きました。有効に使わせて頂きます)

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

翻訳『禅修指南』13-7(441/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

無我相は五

Anattā ca paraṁ rittaṁ、tucchaṁ suññanti

tālīsaṁ. Vedanādayo khandhāpi、tatheva pañcakāpivā.

(一)無我(anattato)

Sāmi-nivāsi-kārakavedakādiṭṭhāyakavirahitāya suññato.

Sayañca assāmikabhāvāditāya anattato.

五蘊には主、住、造作、受と決意諸性(sāmi、nivāsi、kāraka、vedaka、adiṭṭhāyaka)がないが故に、以下のものがない:

1、主我(sāmi atta):諸蘊を擁する我;

2、住我(nivāsi atta):諸蘊の交換を望まない。すなわち、一世毎に同じ身体に住みたいと思う我;

3、造作我(kāraka atta):一切の仕事と作用を実行する我;

4、受我(vedaka atta):目標を感受する我;

5、決意我(adhiṭṭhāyaka atta):一切の仕事と作用に、判断を下す我。】

故に、無我は非主、非住、非造作、非受と非決意であると言える。

(二)空(suññato)

【諸蘊は、主我、住我、造作我、受我と決意我が無いが故に】空である。

(三)敵(parato)

Avasatāya avidheyyatāya ca parato.(Vism)。

Avasatāyātai avasavatanato. 

Yathā parosatanto puriso parassa vasaṁ・・・(Mahāṭīkā)。

【諸蘊は、縁起の段階で言及した所の、諸因によって生起する。まさに、主権を持つ人が、他人の希望に従う必要がないのと同じ様に、諸蘊は人の願望と関係がない。例えば、苦楽が生起しない様に、楽受だけ生起せよと思っても、美しくありたいと思っても(+それは不可能な)如くに。

それらは、人の願望に従わないし、

「老いたくない;

病気したくない;

死にたくない」(+という願いも)受け付けない)。】

故に、それらは、敵である=外から来る親しくない者。

(四)無(rittato)

Yathā parikappitehi dhuvasubhasukhāttabhāvehi rittatāya

rittato.(Vism)。

【この教えの外において、邪見を執取する者は、五蘊(名色)は常、浄、楽、我(dhuva、subha、sukha、atta)であると思うのである。

しかしながら、実際は、それらは無常・無浄・無楽・無我なのである。】

故に、それらは無であり、すなわち、常、浄、楽、我ではないのである。

(五)虚(tuccato)

Rittatāyeva tucchato appakattā va、appakampi hi loke

tucchanti vuccatai.(Vism)。

五蘊(名色)が常、浄、楽、我ではないが故に、それらは虚である。

または、五蘊(名色)の中には、常、浄、楽、我がないとは言うものの、おれらは究極界の中に存在しないと言う訳でもなく、実際は、究極の中にそれらは存在する。それらは、生起、住、壊滅の三時の中に存在する。

故に究極名色法はただ、非常に短い時間の中において存在しているのであって、故に、それらは「虚」(tuccha)なのである。

「虚」の、もう一つ別の意味は、少ない、である。】故に、五蘊(名色)は虚である。

《無常、苦、無我の基因》

Rupaṁ bhikkhave anicchaṁ、yopi hetu yopi paccayo

rūpassa uppādāya、sopi anicco、・・・(Saṁyutta Nīkāya、Sahetu Anicca Sutta.《相応部・有因無常經》

ーー「比丘たちよ。色は無常である。直接引き起こす因(hetu、janaka)を有し、(+それは)また、それを支援する縁(助縁、paccaya、upatthambhaka)でもあり、これらの因と縁は、無常である。

比丘たちよ。無常の因によって引き起される色は、なぜにして、常で有り得るか?」

仏陀のこの經の教えによると、五蘊を引き起す所の無明、愛、取、行及び業の諸々の因自体は、無常・苦・無我なるものであって、故に、名色または五蘊の諸々の果もまた、無常・苦・無我なのである。

禅修行者は智でもって観照して、「諸々の因自体が無常・苦・無我であり、故に、諸々の果もまた無常・苦・無我なのである」事を知見しなければならない。 

理法観の200種類の思惟

色蘊または一つひとつの蘊の中において、十個の無常随観、25 個の苦随観、五個の無我随観、合計40種類の思惟法が、存在している。

一つひとつの蘊には、それぞれ40種類の思惟法がある為、五蘊の理法観は合計200種類の思惟法がある事になる。

先に、名業処表に基づいて、一つひとつの種類毎の、心路過程における全体的な系列の五蘊の無常をのみ、観照する。

内と外を交代しながら、すべての六所縁グループを、40種類すべての思惟法の修習が完成するまで、観照する。その意味は、禅修行者は40回修習しなければならない、という事である。

同様に、五蘊法を(見えるものから始めて)最も遠い過去世から、最後の一個の未来世まで、40種類のすべての随観を修習する。この様にするならば、もう一つ別に40回修習する訳である。

勿論、更に多数回、修習するならもっと良い。ここにおいても、内観も外観も修習しなければならない。

もし希望するならば、禅修行者は名色法を採用して、内外を交代しながら、六種類すべての心路過程について、40種類の随観を修習する。

その後に、名色法を採用して、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世まで、40種類の随観を修習する。この様に、内外を、順序良く繰り返し何度も観照する。

《慧の成就》

Evaṁ kālena rūpaṁ kālena arūpa

sammasitvāpi tilakkhaṇaṁ aropetvā ・・・

(Vism)。

Anukkamenāti udayabbayañāṇadhigamānukkamena・・・

(Mahāṭīkā)。

もし、禅修行者が名色法と五蘊法を(+用いて修習でき)その上、12処法と18界法でもって、観禅の修習をする事が出来るならば、彼は以下の様に実践する:

1、ある時は、色のみを観ずる;

2、ある時は、名のみを観ずる;

3、ある時は、名色の二者を同時に観ずる;

または

1、ある時は、色のみを観ずる;

2、ある時は、受のみを観ずる;

3、ある時は、想のみを観ずる;

4、ある時は、行のみを観ずる;

5、ある時は、識のみを観ずる;

6、ある時は、内を観ずる;

7、ある時は、外を観ずる;

8、ある時は、内外の過去、現在と未来を観ずる;

9、ある時は、無常相を観ずる;

10、ある時は、苦相を観ずる;

11、ある時は、無我相を観ずる。

そしてまた、観智の順序に従って、観禅の修習が出来るならば、彼は「慧の修」(paññā bhāvanā)の成就、すなわち、阿羅漢果を証悟することができる。

もし、いまだ成就することができないならば、観の修習を順序良く繰り返し何度も実践すること。

もし、それでも成功しないのであれば、彼は七色観法と七非色観法の修習に転じるのがよい。

《七色観法》

’Ādānanikkhepanato、vayovuḍḍhatthagāmito;

・・・’。

(一)取捨色観法(ādānanikkhepa rūpa

(ここで言う「取」は結生の事で;「捨」は死亡の事である。)

順序良く繰り返し、内外を観照する時、結生から死亡に至る色法の三相を観照する。

(二)年齢によって増長し生滅する色の観法

(vayo vuḍḍhatthaṅgama rūpa

それぞれの年齢の段階における色法の壊滅を観照する。仮に、禅修行者の寿命を100年とする(もっと長いか、または短い可能性はある)

1、100年を 3齢に分ける。すなわち、初齢は33年、中齢は34年、後齢は33年とする。一つひとつの各齢は、約33年であるとする。

2、100年を10個の段階に分ける。一つひとつの段階は10年である。

3、100年を20個の段階に分ける。一つひとつの段階は5年である。

4、100年を25個の段階に分ける。一つひとつの段階は4年である。

5、100年を33個の段階に分ける。一つひとつの段階は3年である。

6、100年を50個の段階に分ける。一つひとつの段階は2年である。

7、100年を100個の段階に分ける。一つひとつの段階は1年である。

8、100年を300個の段階に分ける。一つひとつの段階は一季(緬甸は一年に、三季を数える)である。

9、100年を600個の段階に分ける。一つひとつの段階は二か月である。

10、100年を2400個の段階に分ける。一つひとつの段階は半月(15日)である。

次に、一日毎の色法を:

1、昼と夜の二段階に分ける。

2、昼間を、朝、日中、午後の三個の段階に分け;夜は初夜、中夜、後夜の三個の段階に分ける。

一つひとつの段階において転起する所の色法の三相を順序良く繰り返し観照する。(仮に聚網を100年とした場合、毎日毎の六段階を観じなければならない。一日観ずれば終わり、という事ではない。)

その後に、六個の部分の中において、転起する色法の三相を観ずる:

1、足を挙げて、足が地面から離れる時に、転起する色法;

2、前に向かおうとして、動かない方の足において転起する色法;

3、動かない足を超えて、前へ進もうとする時に、転起する色法;

4、足を降ろす時に転起する色法;

5、(+足が)地面に着く時に転起する色法;

6、地面を踏みしめた時に転起する色法。

近察(upalakkhaṇa)と顕示(nidassana)の方式(たとえば、「影を見るだけでそれが何かを知る事」)によって、姿勢を観照する事と、行動における色法の三相の指示を理解する事。

100年の内の、毎日発生する所の一切の身体動作を観照する。

(三)食所成色観法

(āhāra maya rūpa

毎日を二つの部分に分ける。この二時の四相続色(catusanti rūpa、すなわち、業、心、時節、食の四種類の因によって引き起こされる色法)の三相を観照する。すなわち:

1、飢餓(=空腹)の時に転起する四相続色;

2、満腹の後に転起する四相続色。

(四)時節所成色観法

(utu maya rūpa

以下の、毎日生起する所の色法の三相を観照する:

1、暑い時に転起する四相続色;

2、寒い時に転起する四相続色。

(五)業生色観法

(kammaja rūpa

一つひとつの処門の色法の生・滅を識別した後、それらの三相(一つの処門を観じ終わった後初めて、もう一つ別の処門の色法を観ずる)を観照する。

1、眼門:目の中に生起する所の54種類の色法;

2、耳門:耳の中に生起する所の54種類の色法;

3、鼻門:鼻の中に生起する所の54種類の色法;

4、舌門:舌に生起する所の54種類の色法;

5、身門:身体に生起する所の54種類の色法;

6、意門:心臓の中に生起する所の54種類の色法。

毎日、一つひとつの処門の中において生起する色法を観照する事。

(六)心等起色観法

 (cittasamuṭṭhāna rūpa

毎日、以下の時刻において生起する所の四相続色を、順序良く繰り返し、観照す:

1、楽しい時に生起する色法(somanassita、喜びの時);

2、嬉しくない時に生起する色法(domanassita、憂の時)。

(七)法性色観法

(dhammatā rūpa

禅修行者は非有情界、根と無関係(anindriya baddha)なもの、例えば鉄、銅、鉛、金、銀、真珠、宝石、猫目石、ほら貝、水晶、珊瑚、樹木、水、地、森林、山等の時節生食素八法聚と声九法聚を観照しなければならない。

先に、智の光でもって、それらの四界の、色聚が見える様になるまで、識別し、次に、これらの色聚の中の8、または9種類の究極色を識別する。

次に、これらの色法の三相を順序良く繰り返し観照する。

註:一番目の項から六番目の項の色法は、有情界に属する色法である。これに対しては、内と外と共に観照しなければならない;七番目の項、法性色はすなわち、非有情無執取行法であり、これに対しては、外の非有情界のみ、観ずればよい。

(13-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

翻訳『禅修指南』13-6(427/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《40種類の思惟法》

《無碍解道》、《清浄道論》(第20章)が、思惟相(lakkhaṇa sammasana)の段階における、40種類の思惟法に言及しているが、暗記に便利な様に、大清浄寺(Mahāvisuddhārāma)の住職が、その書《究極有色分別》(paramatthasarūpabhedanī)において書かれた、幾首の偈は、無常相の思惟の法を10個に;苦相は25個、無我相は5個に、列している。

以下は、これらの偈に基づいて、三グループに分けた三相の思惟法の説明である。

無常相は十

paṁ aniccaṁ palokaṁ calaṁ pabhaṅgu 

addhuvaṁ Viparināmāsārakaṁ vibhavaṁ 

maccu saṅkhataṁ.

(一)無常(aniccato)

Aniccantikatāya、ādiantavantatāya ca 

aniccato. (Vism)

Aniccantikatāyāti accantikatābhāvato、

asassatatāyāti attho.・・・

(Mahāṭīka)。

【名色には両端がある。始まりの端は「生起」であり、末端は「壊滅」である。それらは生起端と壊滅端と呼ばれる。

名色は、常(sassata)ではなく、それらは壊滅の末端を超える事は出来ない。

壊滅の末端を超える事が出来ないが故に、また、それらには、一個の生起の端と、一個の壊滅の端があるが故に、それらは無常の法である。

五蘊法によって、色、受、想、行と識を観照する。

上に述べた定義を思惟した後、色(受、想、行、識)を無常として観ずる。

ここにおいて、「生起の始端を超えることができない」とは、名色の生起の前においては存在しておらず、生起する為に待機するとか、準備するとかの相も存在しない。

また、壊滅の後、それらは一か所に集積するという事もない。

それらは、ただ、発生する二つの不存在(すなわち、生起の前と壊滅の後の、不存在がある)の間に、生、住、滅の刹那があるだけである。

生起端と壊滅端があるが故に、また、この両端を超越する事が出来ないが故に、名色は無常と呼ばれる:こうしたことから】無常として観ずる、すなわち、常または永恒はない、のである。

(二)毀(palokato)

Byādhi jarāmaraṇehi palijjanatāya palokato.(Vism)

病老死によって毀壊されるが故に、毀として観ずる。

(三)動(calato)

Byādhi jarāmaraṇehi ceva lābhālābhādīhi・・・(Vism)

【愛と恨の基因は、世間法である。たとえば、得と失の如くに。

これら世間法は、心をして、動揺せしめるが、それは愛と恨の如くである。

名色は、病老死する事と得失などが原因で、世間法であり、動揺し、不安定である。】が故に、動揺または不安定として観ずる。

(四)壊(pabhaṅguto)

Upakkamena ceva sarasena ca pabhaṅgu・・・(Vism)。

【それらは、自力か、または他力か、または自性を因として、混乱の中において壊滅する相を持つ。】壊=混乱の中において壊滅する相を擁する。

(五)不恒(addhuvato)

Sabbāvatthannipātitāya、thirabhāvassa ca ・・・(Vism)

【落性を有する、すなわち、生命の如何なる時期においても、死ぬという事がある。たとえ青年であるとか、または楽しい幼少期であっても。これは正に、果実が、小さな粒の時から始まって、如何なる時期においても、落下する可能性がある事と同じである;

たとえ落下しなくても(すなわち、死亡しなくても)、それには実質がなく、堅固性がない。】不恒として観ずる=安定、堅固性がない。

(六)変易法(vipariṇāmadhammato)

Jarāya ceva maraṇena cāti dvedhā・・・(Vism)

【老(または住)と死(壊滅)という二種類の変易性があるが故に】それらは変易法である。(その意味は、それらは生時から変じて、住時(+を迎え)または老い(+を迎え)、また壊滅時に変化するか、または死する)。

(七)不実(asārakato)

Dubbalatāya、pheggu viya sukhabhañjanīyatāya・・・(Vism)

【力が弱い為に、たとえば、白木質の様に、破壊を受けるが故に】それは不実であり、堅固な実質がない。

(八)無有(vibhavato)

Vobhavasambhūtatāya ca vibhavato.(Vism)

【生起の後、即刻壊滅し、増長、拡大または増益がなく、また、無有愛(vibhava taṇhā)と無有見(vibhava diṭṭhi)を基とした、徹底的な毀滅性の故に】それらは無有である=それらは徹底的な毀滅性である。

(九)死法(maraṇadhammato=maccu)

Maraṇapakatitāya maraṇadhammato.(Vism)

【死(=壊滅)性が有るが故に】それは死法であり、すなわち、死性を有しているのである(=壊滅性の具備)。

(十)有為(saṅkhatato)

Hetupaccayehi abhisaṅkhatatāya saṅkhātato.(Vism)

【因(hetu、janaka)と助縁が和合することによって造られる】故に、それらは有為である=不断に因と縁とによって造られる。

直接色法を引き起こす所の因は業であり、因(hetu、janaka)である。

煩悩輪転(無明、愛、取)は、過去の業を支援する助縁である。

煩悩輪転は縁力(たとえば、親依止)によって、善業を支援するが、また、縁力(たとえば、親依止)と因(たとえば、俱生)によって、不善業を支援する。

次に、心、時節と食もまた、色法を支援する助縁である。

心、時節と食は、些かの心生、時節生、食生色法を引き起し、また些かの色法を支援するものの、しかし、これは業力が業生色を引き起すのとは、方法が異なる。

心は、俱生などの縁力でもって、心生色を支援する;

時節は、親依止縁力などでもって、時節生色を支援する;

食は、食縁力などでもって、食生色を支援する。

それらは業力ではない為、因(janaka)ではなく、ただの助縁である。 

果報名法の因(hetu、janaka)は業である。

煩悩輪転、すなわち、無明、愛と取は、上に述べた色法と同じで(助縁で)ある。

一切の善、不善と無記としての、現在因の依処、助縁、触などは、助縁である事に、注意する事。

上に述べた説明に基づいて、色(受、想、行、識)を、「無常」または「毀」等々として、観ずる。

以上が、無常想の 10種類の思惟法である。

苦相は25

Dukkhañca rogāghaṁ gaṇdaṁ、sallā bādha

upaddavaṁ ・・・。

 (一)苦(dukkhato)

Upādavayapaṭipīḷanatāya、dukkhavatthutāya ca dukkhato(Vism)

Uppādavapaṭipīḷanatāyāti uppādena、vayena  ca pati

pati khaṇe khaṇe・・・(Mahāṭīkā)。

【名色は、一つひとつの刹那生滅の逼迫性によって「虐め」があり、名色を擁する者、また名色自体が、不断に生・滅の逼迫を受けるが故に:

苦苦(すなわち、苦受)であり、変易苦(すなわち、楽受、その意味は、住時は楽であり、壊滅時は、苦である)と行苦(すなわち、捨受+受の名色を除く)の依処であり、または生死輪廻苦の依処である】苦=卑劣と苦。

行苦:

三界の一切の行法は、皆、行苦と呼ぶことができる。

苦受と楽受は、それぞれ、苦苦と変易苦と呼ばれる為に、ここでは、行苦を下記の様に定義する:

捨受に一切の三地行法を加えて、受を除く(すなわち、一切の三界行法から、苦受と楽受を除く)。

一切の三地名色行法は、皆行苦と呼ばれる。

というのも、それらを生起せしめる所の、有為苦(saṅkhato dukkha)が存在する為と、不断に生・滅の圧迫を受けるが故に。

(二)病(rogato)

Paccayayāpanīyatāya、rogamūlatāya ca rogato.(Vism)

【縁によって維持を得る、これは病の根本である】それらは病=痛苦の病である。】

【その意味は、名色は、身・心の一切の疾病の発生する基地であるが故に、それらは慢性病の様である。】

(三)悪(aghato)

Vigarahaṇīyatāya、avaḍḍhiāvahanatāya・・・(Vism)

仏陀と、その他の聖者が呵責する所の、不善法であり、損失を招き、悪の発生する基地である】故に、それらは悪=損失または無益である。

(四)瘡(gaṇḍato)

Dukkhatāsūlayogitāya、kilesāsucipaggharanatāya、・・・(Vism)

【苦(すなわち、苦苦、変易苦と行苦)と相応して、目標または相応法の縁によって、常に煩悩(たとえば、貪欲)が流れるという不浄を引き起す。

その前にはなかったのに、突然に生起する所の膨張;

住時(老)の成熟と、壊滅時の破壊】の為に、それらは瘡(癰)である。

 「目標または、相応法の縁によりて、常流煩悩(たとえば、貪欲)の不浄が引き起される。」とは、後生貪欲は、前生貪欲を目標にとって生起する事を言うのである;

煩悩(たとえば、貪欲)は、心と心所が、煩悩を齎す目標を縁に取る事によって生起する。それらは名色から流れ出て来る「膿」であり、それはまさに、瘡から流れ出る膿の様である。

(五)箭(sallato)

Pīlājanakatāya、antotudanatāya、dunṇīharanīyatāya ca sallato(Vism)

【それらは、生・滅の逼迫を齎すが故に;

身体内に刺された苦受の様に、行法は生起する時に、内において、生・滅でもって刺すが故に;

聖道で抜く事を除けば、名色行法は、「鉤針」の様に、取り出しにくい】故に、それらは箭である=刺す箭である。

(六)疾(ābadhato)

Aseribhāvajanakatāya、ābādhapadaṭṭhanatāya ca

ābādhato.(Vism)

【(一)重病を罹患した病人の様に、己自身で歩く事も動く事もできず、他人の援助を必要とているのと同じ様に、諸蘊は皆、己自身独自に生起することができず、その他(の縁)に依存する:

(二)それらは一切の疾病の因であるが故に。】それらは疾である=頑なる疾病。

(七)禍(upaddavato)

Aviditānaṁ yeva vipulānaṁ ・・・(Vism)

【それらは、多くの、予測できない過患、たとえば、懲罰、老い、病、死、悪道への堕落等を齎すが故に;

それらは一切の過患の基地であるが故に】それらは禍である。

(八)畏怖(bhayato)

sabbabhayānaṁ ākaratāya、dukkhavūpasamasaṅkhātassa.

・・・(Vism)。

【(一)諸蘊は危険な「陥穽」である。今生と来世の危険。

(二)それらは苦の寂滅と言われる至上解脱涅槃と対抗するが故に、それらは畏怖であり、無楽の大畏怖である。】

(九)難(ītito)

Anekabyasanāvahanatāya ītito.(Vism)

【諸蘊が種々の不幸を招くが故に】危難である。

(十)災難(upasaggato)

Anekehi anatthehi anubadhatāya。dosūpasaṭṭhatāya、・・・(Vism)

【(一)種々の不利に随追される。たとえば、外部では親族を失うなど、内部では疾病(+に見舞われる);

(二)疾病と夜叉鬼神が齎す痛苦の如くに忍び難い】故にそれらは災難である。

(11)非保護所(atāṇato)

Atāyanatāya ceva、alabbhaneyykhematāya ca atāṇato.(Vism)

【(一)それらが生起した後、壊滅しない様に保護する事が無い。というのも、諸蘊は生起した後、必ず壊滅するが故に;

(二)保護するという事も出来なければ、安全を与える事もできない】故に、それらは非保護所である。

(12)非避難所(aleṇato)

Allīyituṁ anarahatāya、allīnānampi ca leṇakiccākāritāyā aleṇato.(Vism)

【(一)苦難を恐れて、避難を求める者に対して、諸蘊は、彼らの避難所として値しない:

(二)それらは、この身(蘊)に依存している者が、苦難に面している時に、その苦を完全に取り除くことができないが故に】それらは避難所で有り得ない。

(13)非帰依処(asaraṇato)

Nissitānaṁ bhayasārakattābhavena asaraṇato(Vism)

【苦難を恐れて、依止を探し求める者に対して、それらは彼らの畏怖を取り除くことができない。たとえば、老病死などなど】故にそれらは帰依処とはなり得ない。

(14)殺戮者(vadhakato)

Mittamukhasapatto viya vissāsaghātitāya vadhakato.(Vism)

【それらは敵でありながら、笑顔の友人の様に偽装して、それらに近い親しい人を殺すことができる】故に、それらは殺戮者(vadhaṁ)である。時々刻々、(俗諦の)人、天神、梵天神、有情を殺しており、彼らが、生、住、壊滅の三刹那において、超越できない様にせしめている。

それらに近しい存在、また「色・受・想・行・識は楽であり、苦ではない」と思う人を殺害するが故に、諸蘊は、親しい人を殺害する凶手である。有情は諸蘊に対して、「それは私のものである」(etaṁ mama)という邪見を持つが故に、確実に不幸である。これは、苦諦と呼ばれる所の蘊が、集諦と呼ばれる所の愛貪(taṇhā lobha)によって生起する事を言うのである。また、親しい者を殺害するが如くに、諸蘊はそれと親しい人を殺害する。故に、「近親者の殺害者」と呼ばれるのである。

(15)悪の根(aghamūlato)

Aghahetutāya aghamūlato.(Vism)

Aghassapāpassahetutā aghahetutā(Mahāṭīkā)

【それらは悪の基因であるが故に】それらは悪の根である。

(16)患(ādīnavato)

Pavattidukkhatāya、dukkhassa ca ādhinavatāya ādīnavato

・・・(Vism)。

Pavattidukkhatāyāti bhavapavattidukkhabhāvato.・・・

(Mahāṭīkā) 

【(一)五蘊の無常などの諸法は、「有転起」(bhava pavatti)と呼ばれる。これらの法の存在は、また、諸蘊の過患と言われる。仏陀は、以下の様に言う:「比丘たちよ。この無常苦変易法(anicca dukkha vipariṇāma dhamma)は五取蘊の過患である。」というのも、「有転起輪転苦」が存在するが故に、五蘊の無常などの諸法が存在する;

(二)五蘊(苦諦)の過患があるが故に、それはすなわち、無常苦変易法である】が故に、それらは悪染の過患である。(これは、無常苦変易法を具備する所の、諸法を指して言うのである。)

【また、困窮者は過患である。五蘊は、あの帰依のない困窮者の如くである】が故に、それらは無帰依の困窮者である。(これは、生起した後、壊滅時に到達した時、それらは何等の依止も無く、壊滅を免れない。)(17)有漏(sāsavato)

Āsavapadaṭṭhānatāya sāsavato.(Vism)

Āsavānaṁ ārammaṇādinā paccayabhāvo āsavapdaṭṭhānatā.(Mahāṭīkā)

【名色の基因としての煩悩輪転(無明、愛、取)は、有漏法(āsava dhamma)である。これらの有漏法の生起は、五蘊(名色)が所縁縁力(ārammaṇa paccaya satti)等の縁力で支援するのが原因である。五蘊(名色)は有漏法の近因であるが故に】それらは有漏であり、すなわち、四有漏法の増長である。

(18)魔食(mārāmisato)

Maccumārakilesamāranaṁ āmisabhūtatāya mārāmisato.(Vism)

Maccumārassa dhiṭṭhānabhāvena、kilesamārassa・・・(Mahāṭīkā)。

【魔には五種類ある、すなわち、天子魔、煩悩魔、蘊魔、死魔と行作魔(devaputta māra、kilesamāra、khandha māra、maccumāra、abhisaṅkhāramāra)である。

これらの中で、《清浄道論》は、煩悩魔と死魔について言及している。疏鈔は、すべての五魔は、皆含まれると言う。

諸蘊は死魔(死亡)が発生する地である。(その意味は、蘊が無ければ、死亡もない、という事である。諸蘊は煩悩輪転(無明、愛と取)の依止の縁であり、それが増長する縁でもある。

蘊は蘊の因であるが故に、蘊は蘊の食べ物でもある。

こうしたことから、蘊は蘊が依止して生起する所の因であり、また、蘊を増長せしめる因でもある。

新しい生命を引き起す事の出来る善と不善行は行作魔であり、これもまた五蘊の中に含まれる。

蘊は行作を因にして生起する:

行作は、また、蘊に依存して生起する。

行作はまた、善行と不善行の名蘊でもある。

天子魔に関しては、それを「増上慢食」(adhimāna āmisa)として理解しなければならない。それはすなわち、「この一切の法は、すべて私のものである」(etaṁ mama=mametaṁ)と思う事である。

五蘊は、天子、煩悩、蘊、死、行作の五魔が「食べたり、嚼したり、用いたり」するが故に】それらは五魔の食べ物である。

(19~21)生法、老法、病法

(jātidhammato、jarādhammato、byādhidhammato)

Jātiarābyādhimaraṇapakatitāya jātijarābyādhimaraṇa dhammato.

(Vism)

【諸蘊には、生(生時)、老(住時)、病(と死=壊滅時)があるが故に】それらは生老病の法である。(死法はすでに、無常相の中に列記されている)。

(22~24)愁法、悲法、悩法

(sokadhammato、paridevadhamato、upāyāsadhammato)

Sokaparidevaupāyāsahetutāya sokaparidevaupāyāsa dhammato.

【諸蘊は愁悲悩の生起の因であるが故に】それらは愁、悲、悩法である。

(25)雑染法(saṁkilesikdhammato)

Taṇhā-diṭṭhi-duccrita-saṁkilesānaṁ visayadhammatāya saṁkilesikadhammato.(Vism)。

Saṁkilesattayaggahaṇena tadekaṭṭhānaṁ dasannaṁ・・・(Mahāṭīkā)。

【煩悩の所縁としての諸蘊は、心路過程または有情をして、三雑染法(すなわち、愛雑染、見雑染、悪行雑染)によって、汚染せしめるが故に】それらは雑染法=愛、見、悪行の三雑染の増長または十煩悩=である。

上に述べた説明を詳細に閲読し、その後に、名色を五蘊に分けて、一つひとつの思惟法ごとに、一つひとつの蘊を、「苦、苦」;「病、病」等と観照する。 

 (16-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

翻訳『禅修指南』13-5(418/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《粗い・微細/劣・優/遠・近》

この様に観照する時、もし、禅修行者が希望するならば、名色を粗い、微細などとして、これを観ずることもできる。

(一)五浄色と七境色(合計12色)は、智によって、識別され易い為、粗い色、と呼ばれる。

(二)その他の16色は、智でもって識別するのは容易ではない為、微細色と呼ばれる。

(三)諸々の名法の中で、不善の受、想、行、識は智によって、識別され易い為、粗いと呼ばれる。

(四)無記(=果報+唯作)の受・想・行・識と、善なる受・想・行・識、たとえば、五門転向、五識、受領、推度、確定、彼所縁、意門転向、彼所縁、結生、有分、死亡、唯作速行等は、微細であって、識別しにくい為、微細と呼ばれる。

(五)不善果に属する色は劣(=劣っている、以下同様)である。

(六)善果に属する色は勝(=優れている、以下同様)である。

(七)粗い名は劣。

(八)微細な名は勝。

(九)微細色は、智によって識別されることが容易でない為、智から遠く離れており、故に、それらは遠い(+と呼ばれる)。

(十)粗い色は、智によって、識別されることが容易である為、智に近く、故に、近い(+と呼ばれる)。

(11)不善の受・想・行・識は、名を無記とする果報と唯作の受・想・行・識からは遠く、また善受・想・行・識からも遠い為、それらは遠い(+と呼ばれる)

(12)不善の受・想・行・識は、不善の受・想・行・識に非常に近い為に、それらは近い(+と呼ばれる)。善と無記の受・想・行・識は、善と無記の受・想・行・識に非常に近いので、これらは近い(+と呼ばれる)。

それらの法を分別する法は、《清浄道論》第14章などで、見ることができる。

もし、禅修行者が名色法と五蘊法によって、過去から現在、未来へと、徹底的に、三時の内と外を観照することができるならば(+修習のおいて、遺漏がなく完璧である):

1、六処門と42身分の中の色法

2、善と不善速行心路過程の名法、及び離心路過程名法、すなわち、結生、有分と死亡、それらは粗い、微細、劣る、優れる、遠い、近い名色が皆含まれていて、遺漏のないものである。

故に、禅修行者は、名色法を上に述べた如くに運用して、観照する(+のがよい):

1、色だけ、その後に

2、名だけ、その後に

3、名色の二者。

《法句經註》の中において、ある一対の(+夫婦の)施主が、名色を二組に分けた後、名色法によって行法を観照し、アナーガミを証悟したという記載がある。

こうしたことから、もし、禅修行者が個別に内外の三時の粗い、微細、劣、勝(=優秀)、近い名色を観照する事ができたならば、尚良好である。

《不浄観》

仏陀は《増支部・山悦經》(Aṅguttara Nikāya Girimānanda Sutta)の中において、不浄想業処(asubha saññā kammaṭṭhāna)について、言説している。これは、有情の有識不浄(saviññāṇaka asubha)、すなわち、不浄観の事である。

仏陀は《メギヤ經》の中において、以下の様に言う:

Asubhā bhāvetabbā rāgassa pahānāya

ーー不浄観を修習して、貪欲(rāga)を取り除くべきである。

《經集・勝利經》(Sutta Nipāta、Vihaya Sutta)の中において、有情に対する、不浄観を教えている。(+それらは)すなわち、有識不浄であり;(+もう一つは)死体への不浄観、すなわち、無識不浄観(aviññāṇaka asubha)である。不浄観は苦随念の一部分に属する。

有識不浄観

有情の32身分の嫌悪想を作意する不浄観は、二種類に分類することができる。

すなわち、嫌悪作意(paṭikūla-namasikāra)によって、ジャーナを証得する法と、身体の不浄過患を知見する過患随観法(ādīnavānupassanā)である。

もし、内部のすべての32、またはいくつか、または一個の身分を作意する所の、嫌悪想(+を修習するの)であれば、禅修行者は、初禅を証得することができる;もし、同様の方法でもって、外部の身分を作意するのであれば、彼はまた、近行定を証得することができる。

これらは、以前にも説明した。

ここでは、32身分の過患随観法について説明する。

32身分の嫌悪相を目標として取り、「不浄、不浄」と観じて、智でもって、明晰に不浄相を知見する。

順序良く繰り返し内を観じ、外を観じる。

徐々に外部の範囲を広げていく。

この時、已に、究極色法と究極名法を知見する観智に善く慣れている為、内部と外部を交代に、32身分の不浄の逆相を観照したなら、非常に速くに、32身分の消失を見、ただ色聚だけを見ることになる。

これは、観智がすでに、究極諦(paramattha sacca)に対して、良好に育成されたのが原因である。内外の32身分の不浄を観照する時、もし、禅修行者が色聚を簡単に見ることができないのならば、彼は、個別に、または全体的に、身分の四界を識別する様にする。この様にすれば、彼は非常に容易に色聚を見ることができる。色聚が見えたならば、究極智を証得するまで、それらを分別し、次に、順序良く繰り返し、それらの三相を観照する。交互に、内部と外部を観ずる。

そして、禅修行者が、不浄観に満足を覚えた時に初めて、身分の四界を観ずること、及び色聚の中の究極法を観照する事に(+修習内容を)転換する。

虫の充満する身体

《泡沫比喩經》(Pheṇapiṇḍūpama Sutta)及びその註釈において、もう一つ別の有情の有識不浄観に言及している部分がある:

この身体には虫が充満していて、非常に多くの虫が、この身体の中で、交配し、繁殖し、大便し、小便し、病気しており、この身体はまた、彼らの「墓場」でもある。ここでは、不浄が充満している身体と嫌悪相を目標として、それを「不浄、不浄」と、順序良く繰り返し、内観と外観をする。(《相応部註》)。

この様に多数回観照したならば、已に究極諦に関して、良好な観智の力量を育成しているが故に、禅修行者は久しからずして、色聚を見ることができる様になる。

色聚から究極色までを識別した後、これらの究極色の三相を、再度、観照する。

もし、禅修行者が容易に色聚を見ることができないならば、彼は、不浄観の修習に満足を覚え(+る程実践し)た後、諸々の虫または虫が充満する身体の四界を識別する。

この時、(+禅修行者は)非常に速く、色聚を見ることができる。

というのも、その智は、已に、究極諦に対して、良好な育成が出来ているが故に。

色聚の中の究極色を識別した後、次にそれらの三相を観照する。

内と外の二者を観ずる。

究極色の不浄相

究極色にも不浄相が存在する、すなわち:

1、匂い(duggandha);

2、不浄(asuci)または嫌悪すべきもの;

3、疾病(byādhi);

4、老(jarā);

5、死(maraṇa)、すなわち、壊滅の時。(《相応部註》)。

観智でもって、これらの不浄相を識別した後、内外を順序良く繰り返し交代してそれらを「不浄、不浄」として観ずる。

この様にして、有識不浄に関して、不浄相を三種類に分類した後、以下の様に観ずる:

1、32 身分の不浄;

2、身体に充満する虫の不浄;

3、究極色の不浄。

《無識不浄観》(死体の不浄を観ずる)

Puna caparaṁ、bhikkhave、bhikkhu seyyathāpi

paseyya sarīraṁ sivathikāya chaḍḍitaṁ・・・

(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta)

ーー次に、びくたちよ。

ある比丘は、死んで一日経った死体、二日経った死体、三日経った死体を見た。その死体は膨張し、変色し、膿液で満たされ、お墓に捨てられたものである。

この死体を見て、彼は以下の様に己自身を観照した:「私の身体もまた、この様な相がある、この相は、必ずや発生し、それは(=彼は)この相から逃げる事が出来ない。」

(《大念処經》)。

Dīghabhāṇakamahāsīvatthero pana 

’navasivathikā ādīnavānupassanāvasena vuttā'ti āha.

ーー阿羅漢長部頌者大吉祥尊者(Mahāsīva)は、仏陀の教えた九墳墓不浄観(navasīvathikā asubha)は過患随観智である、という。  

 もし、上に述べたパーリ経典と註釈に基づいて、無識不浄観を修習したいのであれば、禅修行者は必ずや、一個の死体を選んで観照しなければならない。

止禅の段階で、不浄観を修習するのは、初禅を証得するためであるが、その場合、男性の禅修行者は、男性の死体を観想しなければならず;

女性の禅修行者は女性の死体を観想しなければならない。

これは、禅修行者は外部の死体に専注する必要があり、また近行定において、貪欲(rāga)が、生起して、禅修(定力)に干渉する可能性があるからであり、同性の死体を観想する必要があるのである。

過患随観の修習における、観禅の段階(=己自身と他人の身体の過患)において、内外の過患を、順序良く繰り返し観照する法では、禅修行者は性別に関係なく、観照しやすい死体を選ぶことができる。

たとえば、《經集・勝利經》の中において、比丘、比丘尼、男性居士、女性居士が指示を受けて、祥瑞(Sirimā)なる死体を目標にして、観禅に属する不浄観を修習したと、言及されている。

止禅の段階において、禅修行者はただ一個の外部に存在する死体に専注して、ジャーナの証得するものであるが、観禅の段階においては、禅修行者は内外を交代して、過患を観照するものである。

禅修の方法

禅修行者が徹底的に、順序良く繰り返し何度も内、外、過去、現在と未来の名色(五蘊)の三相を観照する時、その観智によって、極めて明るい光が生起する;

または、以前にすでに修習した事のある第四禅に進入する事もできる。

このジャーナに相応する智の為に、極めて明るい光が生起する。

順序よく定力を育成するか、または順序よく観禅の修習をした後、彼は、すでに死体を目標として修習する無識不浄観を実践するに、相応しいものになっている。

もし、その光がいまだ暗くて無力である場合、再度、順序良く定力を育成しなければならない。

光が、定に相応する智によって、極めて明るく光る時、その時には、無識不浄観を修習することができる。

光が止智または観智によって極めて明るく光る時、禅修行者は光を用いて、己自身が見た事のある死体、または覚えている死体を禅修の目標として、それを照見することができる。

智の光で照見するということは、ちょうど小型のライトで照らす様なものである。

当該の死体の不浄は、観智に置いて、明晰に顕現しなければならない。

当該の死体がすでに腐乱し、悪臭のあるものであれば尚良い。

それの不浄に専注して「不浄、不浄」と観ずる。

修習する時、心をして平静にその不浄を観じる時、禅修行者は観智でもって、己自身の不浄を、あの外部にある、腐乱した死体と同じであるが如くに、観照する事にチャンレンジしてみる。

己自身の腐乱した躯体の不浄を見た時、それを「不浄、不浄」と観ずる。

もし、禅修行者が智でもって、己自身の不浄を照見できない時、彼は、再度、外部の不浄を観じ、その後にあなたに内部を観ずる。

もし、彼がこの様に多数回修習するならば、彼は、内部の不浄を見ることができる。

もし、いまだ成功しないならば、智でもって、現在から(+始めて)未来までの己自身を識別する。この様にすれば、己自身が死体に変化している不浄の様を、簡単に見ることができる。

現在因と未来果の因果関係を識別できる禅修行者にとって、この観法は、非常に容易なものである。

もし、智でもって己自身の不浄を観照する事が出来るならば、彼は内と外とを交代しながら、それらを「不浄、不浄」として観照することができる。

この様に修習する時、己自身が貪染している所の、他人を観照することもできる。

徐々に範囲を拡大していき、内患と外観を交代して修習する。

もし、彼が、この様に、内と外とで、多数回不浄を観照するならば、その前の観の修習の力量によって、また、究極定の修習の経験を積んでいるが故に、彼は内外の死体の色聚見ることができるか、または死体がゆっくりと一塊の白骨になり、その後に骨灰になるのを見ることができる。

また、智でもって、徐々に死体の未来を観ずるならば、当該の死体がゆっくりと一塊の白骨になるのを見ることができるし、その後に骨灰になるのを見ることもできる。

死体の、一つひとつの腐乱の段階を「不浄、不浄」として観ずる。

もし、簡単に色聚を見ることができるならば、究極色(時に時節生色)を識別した後、それらの三相を観照する。

もし、簡単に色聚を見ることができないのであれば、内外の死体の四界を識別する。この様にすれば、これらの死体の色聚を見ることができる。

もし、これらの色聚を識別する事が出来るならば、彼はまた、色聚の中の火界が持続的に不断に造り出す所の時節生食素八法聚をみることもできる。

これらの色聚を識別した後、次にそれらの三相を観照する。

修習している不浄観に満足した後にのみ、不浄観から観禅に転換する。

特別の状況

もし、観じられている死体の中に蛆虫がいた場合、禅修行者が、その死体を観ずる時、時節生食素八法聚が見る以外に、その他の色聚も見る事がある、たとえば、明浄色聚とその他の非明浄色聚である。

その原因は、彼は、その死体に依存して生きている所の蛆(死体の色聚と混ざり合っている)の色聚が見えたのであり、その場合、死体に浄色と四等起色が存在する訳ではない。

内外の死体の色聚を識別した後、次に、その究極色の三相を観照する。

《縁起支》

《清浄道論》第20章において、縁起支は、観智の目標の内に列記されているが、この説は、《無碍解道》に基づくものである。

故に、禅修行者は、縁起支も観照して、次に、随順縁起法によって、因果を識別しなければならない。すなわち、「無明が生起するが故に、行が生起する」などである。

この段階においては、諸々の縁起支に対して、観の修習を実践するべきである。

諸々の過去世と未来世に対して、以下の事を理解する事:

もし、今世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は前世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、今世に属する;

3、生と老死は、未来世に属する。

もし、一番目の前世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は、二番目の前世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、一番目の前世に属する;

3、生と老死は、今世に属する。

もし、一番目の未来世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は今世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、一番目の未来世に属する;

3、生と老死は、二番目の未来世に属する、など等。

これは不断に連貫する、三世因果の観法である。

幾つかの観法の例

(一)無明が生起するが故に、行が生起する:

無明(生・滅)無常;行(生・滅)無常。

己自身の名色相続流の中の、すでに生起した、今まさに生起しつつある、これから生起する無明と行の無常を観照する。

通常、無明は、貪見グループの意門心路過程に属し、行は状況によって、善または不善速行意門心路過程に属する。

たとえば、禅修行者のこの一生を引き起こす行は、かならず、過去世に造(ナ)した修行が原因であるに違いない。

諸々の世において、すでに生じた、今まさに生じつつある、これから生じようとしている無明と行の無常を観照する。

同様の方法でもって、苦相と無我相を観ずる。

(二)行が生起するが故に、結生識が生起する;

行(生・滅)無常;結生識(生・滅)無常。

一切のその他の果報識を無常として観照する。すなわち、すべての六門心路過程、有分識と死亡識を観照する。

縁起第一法の中において、すでに識別した因果に基づいて、その他の縁起支を、生から老死までを、観照する。順序良く繰り返し因果の三相を観照する。

經の教法によると、因果関係を識別している時、果報輪転の法に属する所の識、名色、六処、触と受をのみ、識別すればよい、というのも確かな事である。(《大疏鈔》)。

観禅の修習をする時、それらは別離(avinābhāva、不別離性)できない為、故に、それらを五門転向、確定、速行、意門転向と速行と共に、一纏めにして、観照しても問題はない(いかなる究極界も遺漏しない為に)。

己自身の能力に合わせて、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世までを観照する。順序良く繰り返し、内を観じ、外を観じる。

外に関しては、全体として観ずるものであって、人とか有情とか分別してはならない。

(13-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

翻訳『禅修指南』13-4(411/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

五蘊法》

禅修行者は、再度、処門によって、名法を観ずる(名業処の表参照の事)。

先に、再度、喜俱智相応大善速行の眼門と意門心路過程を識別する。一つひとつの心識刹那の色法を一組に纏め、名法を四組に纏める。

1、依処色(54)と色所縁は色蘊である;

2、一つひとつの刹那の中の受は、受蘊である;

3、一つひとつの刹那の中の想は想蘊である;

4、一つひとつの刹那の中のその他の心所は行蘊である;

5、一つひとつの刹那の中の識は、識蘊である。

その後に、順序よくそれらの三相を観照する。

五蘊法と同様に、以下の一つひとつの心路過程を観照する:

1、色所縁を目標に取るその他残りの眼門と意門心路過程。

2、声所縁を目標に取る耳門と意門心路過程。

3、香所縁を目標に取る鼻門と意門心路過程。

4、味所縁を目標に取る舌門と意門心路過程。

5、触所縁を目標に取る身門と意門心路過程。

6、法所縁を目標に取る意門心路過程。

五門転向から意門心路過程に至る彼所縁(名業処表参照の事)は、以下の方法によって、順序よく一つひとつのグループの三相を観照する:

1、全体のグループの中の色だけを観ずる。

2、全体のグループの中の受だけを観ずる。

3、全体のグループの中の想だけを観ずる。

4、全体のグループの中の行(心所)だけを観ずる。

5、全体のグループの中の識だけを観ずる。

この様に観照する時、心路過程の間に出現する所の有分心刹那を、五蘊法でもって、観照する;法所縁を目標に取る所の意門心路過程の観法は、上と同じである。

五蘊法を運用して、内部の観察に満足したならば、次は、同様の方法を用いて、外を観ずる。近くから遠くへ、繰り返し、何度も、内、外と観ずる。

外部の観は、智が観照する範囲を徐々に広げていき、無辺世界に至る様にし、31界全体を観照の目標とする。

この様に、名法または五蘊法によって観禅の修習をする時、禅修行者は、「いまここ」(khaṇa paccuppanna、または現在刹那)に到達できる様、尽力する。

智が「いまここ」の刹那を観ずる事ができる様にするため、彼は、心路過程の間に出現する所の有分刹那の五蘊法を、「いまここ」の刹那の境になるまで、観照しなければならない。

五蘊法を運用して観照する事に満足した今、次に、五蘊法によって現在世(addhā paccuppanna、すなわち、結生から死亡に至るまで)の三相を観照する。心路過程心と離心路過程の二者に対して、それぞれ順序良く繰り返し(+観ずる):

1、色のみを観ずる。

2、受のみを観ずる。

3、想のみを観ずる。

4、行(心所)のみを観ずる。

5、識のみを観ずる。

無常を多数回観ずる事;

苦を多数回観ずる事;

無我を多数回観ずる事。

結生から死亡までの、一つひとつの蘊を観照する。

たとえば、結生から死亡までの色蘊を徹底的に観照した後初めて、同様の方法を用いて、受蘊を観照する。

内と外、交互に繰り返して観照する。

《同時に色法を観照する》

その後に、それらの壊滅または生・滅を目標として取り、順序良く繰り返しそれらの三相を観照する。

眼門心路過程を例にとるならば:

一つひとつの心識刹那の名色の生・滅(たとえば、五門転向の中の54種類の依処色と所縁色の生・滅と11名法の生・滅)を識別した後、順序良く繰り返し何度も、

ある時は無常を観じ;

ある時は苦を観じ;

ある時は無我を観ずる。

処門によって、すべての六門を観照する。

一切の内外の善と不善速行心路過程を観照する。

以下の方法を運用して、順序良く繰り返し、内外(名色)を観照する

1、色のみを観ずる。

2、名のみを観ずる。

3、名色を同時に観ずる。

その後に結生から死亡に至るまで;

1、色のみを観ずる。

2、名のみを観ずる。

3、名色を同時に観ずる。

この様に、已に生じた、今まさに生じている、これからまさに生じようとしている名色を全体的に観照する。次に五蘊法に基づいて、結生から死亡までを観照する。

《過去・現在・未来》

Aniccādivasena vividhehi ākārehi

dhamma passatti vipassanā.(Aṭṭhasālinī)

名色法を運用して、順序良く繰り返し何度も、現在世(結生から死亡まで)の名色を観照した後、もし、禅修行者が已に満足を覚えたならば、かれは次に過去、現在と未来の名色を観照することができる。

Aniccādivasena vividhehi ākārehi dhamma passatti vipassanā.

ーーこれは行法の種々の状態、たとえば、無常、苦、無我を観照する種々の方法である為、それは異観(Vipassanā)と言う。(Abhi-com)     上に述べた註釈が言う様に、究極行法の三相を観照している段階をのみ、異観(観禅)の修習であると言える。

注意する事:

いまだ、名色の究極智を証得していない時で、概念と究極法を分ける事なく、生起した法ならどの様なものでも、観照するならば、その禅修は、観禅とは言えず、観禅ではありえない。

己自身が識別することのできるもっとも遠い過去世の名色(結生から死亡まで)に関して、順序良く繰り返し何度も観照する:

1、色法の三相をのみ観ずる;

2、名法の三相のみ観ずる;

3、名色法の三相。

その後、同様の方法を用いて、もう一つ別の(比較的近い)過去世の名色(結生から死亡)を観照する;

一つ前の世の結生から死亡までの名色;

今生の結生から死亡までの名色;

一番目の未来世の結生から死亡;

(もし、まだ未来があるのであれば)二番目の未来世の結生から死亡までの名色;

己自身が識別することのできる最も遠い未来世。。

ここまできても、いまだはっきりと理解できない禅修行者の為に、ここでは、観の修習に関して、更に一歩進んだ説明をする:

(たとえば)禅修行者は、五番目の前世の行法(名色と因果)を識別する事ができるならば、彼は、過去世から現在世、未来世まで、順序良く繰り返し何度もそれら(の名色)の三相を観照するべきである。

1、色のみを観ずる。その後

2、名のみを観ずる。その後

3、名色を同時に観ずる、すなわち:

3.1 五つ前の世の結生から死亡までの名色、その後

3.2 四つ前の世の結生から死亡までの名色、その後

3.3 三つ前の世の結生から死亡までの名色、その後

3.4 二つ前の世の結生から死亡までの名色、その後

3.5 一つ前の世の結生から死亡までの名色、その後

3.6 今生の結生から死亡までの名色、その後(もし未来世があるならば)

3.7 一番目の未来世の結生から死亡までの名色、その後(更に遠い未来世があるならば)

3.8 二番目の未来世の結生から死亡までの名色、などなど。

順序良く繰り返し、ある時は内を観じ、ある時は外を感じる。

同様に、五蘊法に基づいて以下を観ずる;

1、色のみを観じて、その後

2、受のみを観じて、その後

3、想のみを観じて、その後

4、行(心所)のみを観じて、その後

5、識のみを観ずる。

ある時は無常を観じ:

ある時は苦を観じ;

ある時は無我を観ずる。

順序良く繰り返し内外を観ずる。

重複して、順序良く繰り返し何度も観照する。

この様に観照する時、以下の様に、五蘊は皆、観照されなければならない:

1、粗い色、受、想、行、識:または

2、微細な色、受、想、行、識:または

3、劣っている色、受、想、行、識:または

4、優れている色、受、想、行、識:または

5、遠い色、受、想、行、識:または

6、近くの色、受、想、行、識。

もし、禅修行者がこの様に観照することができるならば、彼はすなわち、已に過去、現在、未来、内、外、粗い、微細な、劣っている、優れている、遠いと近いの 11個の形式で存在する所の、色、受、想、行、識の五蘊観照する事ができたのだと言える。

《無我相こう》の観法は:

’Tasmātiha、bhikkhave、yaṁ kiñci rūpa

atītānāgatāpaccuppannaṁ ・・・(Saṁyutta)   ’

Netaṁ mama、nesohamasmi、na meso

attāti samanupassāmīti・・・(majjhima aṭṭhakathā)

「比丘たちよ。

五蘊は無常、苦、無我であるが故に、この教法において、11種類の形式において存在する色法を以下の様に観ずる、すなわち:

1、過去色(atīta);

2、未来色(anāgata);

3、現在色(paccuppanna);

4、内色(ajjhatta);

5、外色(bahiddha);

6、粗い色(olārika);

7、微細色(sukhuma);

8、劣った色(hīna);

9、優れた色(paṇīta);

10、遠い色(dūre);

11、近い色(santika)は:

ⅰ.「この色は、私の色ではない」(netaṁ mama)、すなわち苦である;

ⅱ.「この色は私ではない」(nesohamasmi)、すなわち無常。

ⅲ.「この色は己自身ではない」(ṇa meso atta)、すなわち無我。

「観智の光によって、名色の密集を看破して、それらを如実知見に観する」

上と同様の方法によって、四名蘊、すなわち、受、想、行、色を観ずる。

(13-5につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

翻訳『禅修指南』13-3(402/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《観智と神通》

過去と未来を識別する件に関して、幾人かの大徳は、已に神通(特に宿命通)を証得している人だけが、過去と未来を識別することができる、と言う。

実際は、過去と未来を識別するには、二種類の方法がある。

すなわち、宿住随念智と観智である。

《相応部・蘊品》と註釈は、以下の様に言う:

’Ye hi keci、bhikkhave、samaṇā vā brāhmaṇā

vā anekavihitaṁ・・・(Saṁyutta) ’

Pubbenivāsanti na idaṁ abhiññāvasena

anussaraṇaṁ sandhāya vuttaṁ、vipassanāvasena

pana pubbenivāsaṁ ・・・

(Saṁyutta aṭṭhakathā)

「比丘たちよ。

この世において、ある種の沙門と婆羅門は智憶によって、多くの過去蘊を思い出すことができる;

この様に追憶する時、そうしたいのであれば、彼らは五取蘊または五蘊の一を思い出すこともできる。

もし、必要であれば、これらの沙門と婆羅門は、智憶によって、以下の事を想い出すこともできる;

1、どの色が過去において、生起した事があるか;

2、どの受が過去において、生起した事があるか;

3、どの想が過去において、生起した事があるか;

4、どの行が過去において、生起した事があるか;

5、どの識が過去において、生起した事があるか。」

(《相応部・所食經》Khajjanīya Sutta、saṁyutta Nikāya)。

仏陀は説明する時、「宿住」(pnbbenivaāsa、すなわち、過去蘊)という詞を使っているが、しかし、宿住随念智(pubbenivāsānussati abhiññā )でもって、過去の蘊を思い出す事を言っているのではなく、あれら沙門と婆羅門が、観智でもって過去蘊を思い出せる事を言っているのである。

こうしたことから、仏陀は示して言う:

「(彼らは)・・・智でもって、五取蘊または五取蘊の一を思い出すことができる。」

その違いは、神通によって過去蘊を思い出す時、宿住随念智は以下の事を知見することができる:

1、出世間法を含む五蘊。(その意味は、それは聖者、たとえば、過去仏の心中に生起した出世間法を知る事ができる。)

2、五取蘊(その意味は、出世間法を含まない。)

3、五蘊と関係のある族系、美しさ、食べ物の栄養、楽しさ、苦痛等。

4、各種の概念、たとえば、名称概念。

しかしながら、観智は、上に述べた第一、第三と第四項を知る事ができない。ただ、第二項、観禅の目標に属する五取蘊をのみ知る事ができる。

上に述べた経文が言及する所の、「智でもって色を思い出すのみ」(rūpaṁ yeva anussarati)とは、智でもって過去蘊を思い出した時、どの様な人も、有情または私などというものを思い出すのではなくて、究極法、それは智でもって、過去においてすでに滅尽した所の色蘊をのみ思い出すのを言う。

これは受についても同様である事に注意すること。(《相応部註》)

故に以下の事に注意しなければならない:禅修行者は観智でもって識別する事を通して、過去の五取蘊を知見することができる。ここにおいて、名色分別智と縁摂受智もまた観智の中に含まれる(+事も言い添えておく)。

一個の重要な条件

過去五蘊を思い出すことができる(+能力)は、過去因を識別する為には、非常に重要であると言える。

もし、人が過去五蘊を思い出す事ができないのであれば、彼は過去五蘊の一部分に属する所の過去因を識別することができない。

同様に、「過去果の生起は、更に遠い過去因による」及び「現在果の生起は、過去因による」に関して、彼は識別する方法を持たない事になる。

もし、人が、未来の五蘊を識別することができないのであれば、彼は「未来果の生起は、現在因または過去因が原因である」及び「更に遠い未来果が生起する原因は未来因による」というのも識別することができない。

これは、未来果と未来因は、未来五蘊の一部分に属するが故である。

過去の因果と未来の因果を追尋する一つの重要な条件は、臨終速行の目標、すなわち、業または業相または趣相を識別することができるかどうかである。

その目標が、果を引き起こす所の業が原因で出現するが故に、それは、引き起されんとする果、すでに引き起こされた果、またはまさに引き起こさんとしている果の業を追尋する主要な条件となるのである。

それは臨死速行が、相見合う所の六根門において生起する所の目標であり、特に、臨終の時に意門において出現する所の目標である。

先に六門(特に意門)が識別できていなければならない。

禅修行者は、そうであって初めて、相見合う根門に出現する所の目標を識別することができるのである。

その目標を明らかに識別する事ができて初めて、禅修行者は果を引き起こす所の業、及びその業を取り巻く無明、愛と取を識別することができるのである。

意門を識別する事ができて初めて、禅修行者は有分心の間に生起する所の心路過程を識別することができる。因に属する無明、愛、取、行と業はすなわち、これら心路過程に含まれており、それらは心路過程心の一部分なのである。

過去因を追尋する時、過去の臨終速行の目標を識別できる事は非常に重要である。その臨終速行の目標を識別する為には、過去世の臨終の時野有分心を識別できなければならない。この様に出来てこそ、以下の事を識別することができる;

1、意門に出現する臨終速行の目標。

2、有分心の間に出現する心路過程。臨終速行心路過程を含む。

3、その目標を出現せしめる所の業または因。

4、その業を取り巻く無明、愛と取。

同様に、もし、(+あなたに)未来世があるならば、今世の臨終速行の目標を識別できなければならない:そして、この事が出来る様になる為には、先に、今生の臨終の時の有分透明界(意門)を識別できなければならない。

唯一、この様にして初めて:臨終速行の目標、その目標が出現するに至る事になる(+因で)、かつ、果報を引き起こせんとする業、及び当該の業の助縁としての無明、愛、取を識別することができる。

同様に、若し、彼に、更に遠い未来の輪廻があるならば、諸々の未来世の間の因果関係(縁起)を識別している時、彼は、必ずや、未来世の臨終の時野、意門に出現する所の、臨終速行の目標を識別出来なければならない。その目標は、まさに新しい未来世を引き起こさんとしている所の業として出現する故に、目標を出現せしめる所の業は、未来の蘊(たとえば、第二未来世など)の因と縁となるのである。

その目標は、過去世の業が原因で、生起することができる(この業は、順後業、aparāpariya kamma と言う)。または今世で造(ナ)した業が原因で生起するが、これは死亡の前に造(ナ)した業も含まれるものである。

もし、人が、その目標に従って、業を追尋するならば、彼は非常に軽軽にそれを見つける事ができるし、また、その業を支援する所の無明、愛、取をも見つける事ができる。

この様に識別できる様になるためには、彼は臨終時の六門、特に意門を識別する事ができなくてはならない。

こうしたことから、、過去と未来蘊を識別する事は、ただ単に観禅の修習の時に、過去と未来蘊を観照する事の重要性以外に、それは、因果関係(縁起)と観を修習する時に、縁起を観照する為の重要な条件なのである(+ことが分かる)。

《易観者から始める観禅の修習》

易観(=観察しやすい)と明晰な名色から始めて、名色の観禅の修習をする原則について、『禅修指南』では、先に、今世の名色の観の修習から説明する。

まず、順序に従って定力を育成し、直前まで証得していた再考の定力まで上げておく。もし、第四禅を証得する事が出来るのでああれば、毎回、座禅・瞑想の時に、彼は先に第四禅に入らなければならない;すでの四界分別観を成就した純観行者に関しては、彼は、四界分別観を修習して、定力を育成し、光が極めて明るく輝く様にしておく。

ここでの教法は、先に色業処を教える事もあり、また、先に色法を観ずる方が容易である事もあって、色法を先に観じなければならない、とする。

まず、六処門と42身分の真実色法に対して:

1、一個の処門の中の54または44種類の色法を全体として見做す。

2、一個の身分の中の44種類の色法を全体として見做す。

3、六処門と42身分の中のすべての色法を全体として見做す。

(一)智によって、これらの色法の生・滅の本質を観ずる。それらの「生・滅」を目標に取り、それらを無常であると、何度も観ずる。

何度も繰り返して交代しながら、内と外を観ずる。

外を観ずる時は、先に近くを観じ、次に徐々に遠くを観ずる。最後は無辺世界まで観ずる。この様に重複して、繰り返し何度も観照する。

(二)智によってこれらの色法を「不断に生・滅の圧迫を受ける」本質を観じた後、それらの苦を何度も観ずる。内と外、及び近くから遠くまで、無辺世界に至るまで、繰り返し何度も観ずる。

(三)智によって、これらの色法を「壊滅しないという実質、または我を有していない」と観じた後、何度も繰り返して、それらを無我として観ずる。内と外、及び近くから遠くまで、無辺世界に至るまで、交代しながら観ずる。

註:非真実色法は観禅における三相の観照の対象ではない為、この段階においては、最早、非真実色法を観ずる事は止める事。

この様に連続して、繰り返し、内外の三相を観照する時、明晰に、極めて迅速な生・滅が見えていなければならないが、但し、中等の速度で、それらの無常・苦・無我を観ずる事。

色聚の生・滅を見ている時、それらを目標として三相を観照してはならない;

色聚の識別をした後に、智でもって、究極色の生・滅を観照するものであって、この点を実践できた時にのみ、究極色の三相を観照する事とする。

註:色法を観照している時、非有情の色法も観ずる。すなわち、無執取行である。

《名色の滅尽と見做す》

色聚は、最も小さい密集の概念である。実際は、構成概念(samūha paññatti)等の概念は、(+その時点では)未だ看破されていない。

概念は、真実的な存在ではない為、長時間それを見る事は出来ない。

禅修の時、宿世の波羅蜜がよい禅修行者は、色聚を見ることができる。

しかし、それを地、水、火、風、色、香、味、食素などの究極法として識別しないし(=できないし)、また究極智を証得してないならば、彼は、これらの色法の生・滅無常を観じようとしても、久しからずして、彼に色聚が見えなくなる。というのも、概念は、長時間、観智によって観照される事が出来ないが故に。

色聚が斯くの如くに消失した時、定力が未だ減退していなが故に、彼は白色または透明の物体を見ることができる。

彼の心は、静かになって、その目標に専注することができるが、ある種の禅修行者は、これこそが、色の滅尽である、と言う。

もし、精進力を少しばかり低減するならば、その静かな、目標に専注する心は、有分に落ちる可能性がある。

当時の目標を知らないが故に(=見失ったが故に)、彼は、己自身すでに空を知見したと思い、有分に落ちたのを、名の滅尽であると言う。

注意するべきは、パーリ経典、註釈、疏鈔の中において、言及されている様に、以下の状況においては、聖道は証悟することはできないのである:

1、内五蘊観照するだけの観禅の修習。

2、外五蘊観照するだけの観禅の修習。

3、ただ色法のみを観ずる。

4、ただ名法のみを観ずる。

5、三遍知でもって縁起を知見していない。

6、三遍知でもって、すべての五取蘊または名色法を知見していない。

もう一つ、注意するべき点は、もし、再度、当該の透明体の中の四界と虚空界を識別する時、彼は久しからずして、色聚を見ることができるであろう、という点である。

《名法の観照

もし、無常の観照に対して、已に満足を感じたならば、これらの名法が生・滅の圧迫を受けている本質を「苦、苦」と観じてもよい。

この様に繰り返して、多数回観照する。

もし、苦相の観照にも満足したならば、これらの名法が永恒の、壊滅しない実質を持っていない、または我ではないということを「無我、無我」と観じてもよい。

すべての内外の六所縁グループの善と不善速行心路過程を観照する。

この様に名方を観照する時、下記の様に、心路過程全体を観照しなければならない(たとえば、名色業処表に示した如く)。

1、色所縁を目標として取った、眼門と意門心路過程。

2、声所縁を目標として取った、耳門と意門心路過程。

3、香所縁を目標として取った、鼻門と意門心路過程。

4、味所縁を目標として取った、舌門と意門心路過程。

5、触所縁を目標として取った、身門と意門心路過程。

それらを繰り返し重複して多数回、観照する。

 《禅修行者が止行者の場合》

もし、禅修行者が止行者である場合、已に証得した所のジャーナ心路過程名法の観照から、観禅の修習を始めるのが、彼にとってもよいと言える。

たとえば、先に初禅に入り、その後に、初禅から出定して、初禅心路過程名方の三相を順序よく、繰り返し観照する。

第二禅などの心路過程名法の観方もまた同様である。

すべての、己自身がすでに証得した所のジャーナの名法を観照し、それらの三相を順序良く、何度も繰り返し観照する。

もし、これらに対して、已に満足を覚えたならば、六所縁グループの名法の三相を観照することができる。たとえば、色所縁を目標に取る眼門と意門心路過程である。

《主に好きな相から観照する》

Evaṁ saṅkhāra anattato passantassa

diṭṭhisamugghāṭanaṁ nāma hoti.・・・

(Vism)

禅修行者は、熟練して力を有するまで、行法の三相を観照しなければならない。この様に修習するならば、もし、その中の一個の随観智(anupassanā ñāṇa)が、残り二個の随観智の、親依止縁力の支援を得られたならば、それは即刻、鋭利で、強大で、清浄になる。

当該の随観智が鋭利になり、強大で清浄である時にのみ、それは初めて、煩悩を取り除くことができる。

無常随観智と苦随観智の親依止力の支援の下、無我随観智が鋭利になり、強大で清浄となる。すでに、何度となく、徹底的に、無常随観智と苦随観智でもって、行法の観照に取り組んでいる禅修行者は、次には、繰り返し、徹底的に、無我随観智によって、行法を観照するべきである。

無我随観智を、観の修習の主とする。

この様であれば、無我随観智は、成熟し、鋭利になり、強大で清浄となり、その為に行法への邪見を「取り除くかまたは断じ除く」事が出来る。

一切の邪見は、皆我見を根基(=根深い基礎)としているが、無我随観智は、直接我見と対立しているが故に、無我随観智は、邪見を取り除くことができる。

次に、苦随観智と無我随観智の親依止力の支援の下、無常随観智は、鋭利になり、強大で清浄になる。すでに何度も徹底的に、苦随観智と無我随観智でもって、行法を観照した禅修行者は、次には、繰り返し徹底的に、無常随観智でもって行法を観照しなければならない。

無常随観智でもって観の修習をするのを主とする。

この様にすれば、無常随観智は成熟し、鋭利になり、強大で清浄になるが故に、行法への慢見を「取り除くかまたは断じ除く」事が出来る。

もし、人が行法を、たとえば、「これは常である、これは永恒である」(idaṁ niccaṁ、idaṁ dhuvaṁ)の様に、常として執取するならば、彼は婆迦梵天(Baka brahma)の様に自大になる。 

次に、無常随観智と無我随観智の、親依止力の支援の下、苦随観智は鋭利になり、強大で清浄になる。

已に繰り返し、徹底的に無常随観智と無我随観智でもって、行法の観照を実践してきた禅修行者は、次には、繰り返し徹底的に、苦随観智でもって、行法の観照をしなければならない。

苦随観智による、観の修習を主とする。

この様にすれば、苦随観智は成熟して、鋭利になり、強大で清浄になる。

その為に、行法を「私の、私の」として執着する所の愛欲(taṇhānikantai)は、尽滅する。

行法に対して、楽想(sukha saññā、行法を楽と見做す)のある時にのみ、行法を「私の、私の」として執着する愛見(taṇhā gāha)は生起する。

苦随観智は、愛見と直接対立する為に、苦随観智は、愛見を止息することができる。(《清浄道論》:《大疏鈔》)。

こうしたことから、三相を徹底的に観照した後、己自身が比較的好ましいと思う相を優先して、相当長い時間を費やして、それを観照する。

もし、選んだ随観智が強大でない時、その他の二相を観照する。

しかしながら、この時、煩悩はただ暫定的(tadaṅga)に「取り除かれまたは断じ除かれる」だけであり、唯一、聖道智のみが、煩悩を正断(samuccheda)し、徹底的に余す所なく、断じ除く事ができる。

聖道を証悟する為に、禅修行者は必ずや、観智を成熟せしめるために、大いに尽力しなければならない。

現在世(addhā paccupanna)

この一生に対して、(+すなわち)結生心から死亡心の間において、已に生起した、まさに生起しつつある、将に生起せんとしている名色法は、繰り返し多数回順序よく以下の様に観照されなければならない。

1、色法の三相のみである。

2、名法の三相のみである。

一つひとつの随観によって、それらを多数回、繰り返し、観照する。

ある時は内を観じ、ある時は外を観じ、ある時は無常を観じ、ある時は苦を観じ、ある時は無我を観じる事。

(13-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳『禅修指南』13-2(392/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《尊重すべき規則》

完全なる三輪転法教示(Teparivattadhamma desana、たとえば、《無我相經》)と、上に述べた註釈及び疏鈔の指示に基づけば(+観の修習とは)、過去、未来、現在、内、外等の、一切の行法(名色と因果)を観照するものであるが、ある種の人々は、以下の様に問うかもしれない:

一体、どの様な方法で、どの様な規則でもって、観禅の修習をすればよいのか、と。

《殊勝義註》(Aṭṭhasālinī)と《清浄道論》(第21章)の中の、「至出起観」に関連する篇章において、遵守すべき規則が、言及されている。

以下は《殊勝疏鈔》の註釈(+の一部)である:

Idhekacco āditova ajjhattaṁ pañcasu 

khandhesu abhinivisati、abhiniivisitvā te aniccādito

passati、yasmā ・・・

(mahāva) 

Evaṁ abhinivisitvā evameva vuṭṭhānakāle pana

ekappahārena pañcahi・・・

(《殊勝義註》)

Abhiniveso ti ca vipassanāya pubbabhāge

kattabbanāmarūpa paricchedo veditabbo・・・

(《大疏鈔》)

「識別」(abhinivesa)(+を完成させる)とは、観の修習を始める前、智でもって、名色を識別する名色分別智(+を完成しておかねばならない事を言う)。

例えば、先に色法を識別し、次に、観禅の修習をする。

すなわち、色識別(rūpe abhinivesa)である。

その他の識別は、これに基づいて、類推するべきである。

識別を観智の目標とする行法(すなわち、苦諦と集諦)は、「辦別」と呼ばれる。

出世間聖道は、以下の方式によって出起(出現)する:

(一)内(内行法)の観照から始める。

それは内(内行法)から出起する。

(二)内の観照から始める。

それは外(外行法)から出起する。

(三)外の観照から始める。

それは外から出起する。

(四)外の観照から始める。

それは内から出起する。

(五)色の観照から始める。

それは色から出起する。

(六)色の観照から始める。

それは名から出起する。

(七)名の観照から始める。

それは名から出起する。

(八)名の観照から始める。

それは色から出起する。

(九)五蘊から出起する。

(一)この教理において、ある種の禅修行者は、内五蘊の識別から始めて、内五蘊の三相を、順序良く繰り返し観照する。

しかしながら、内五蘊の観だけを修習しても「至出起観」(vuṭṭhānagāminī vipassanā、すなわち、行法から出起して、涅槃に趣く事)と道心路過程(magga vīthi)を生起させる事は、出来ないのである。

彼は必ずや、外五蘊観照しなければならない。

故に、他人の五蘊と、非有情の無執取行法を識別した後、彼は、順序良く、繰り返し、外行法の無常・苦・無我の三相を、観照しなければならない。

禅修行者は、ある時は、内行法の三相を観照し;

ある時は、外行法の三相を観照しなければならない。

この様に、内行法を観照する時、彼の観智が聖道と接する(その意はすなわち、聖道智が観智の末端で生起する)が、これを「内の観照から始めて、それは内から出起する」と言う。

至出起観は、行法出起(出現する)して、無為涅槃の「観心路過程」に趣き向う。これがすなわち、達頂観(sikhāpattā vipassanā)と呼ばれる所の行捨智、随順智と種姓智である。

(二)もう一つ別の方式:

禅修行者は、内の観照から始めて、内と外を交代させながら観じる。

彼がまさに、外を観じている時、観智が聖道と接する。

これを「内の観照から始めて、それは外から出起する」と言う。

(三、四)外の観照から始めて、それは外と内から出起する。

(第一・第二に、類似している。違いは、外の観照から始める事である。)

(五)(内外ともに名色の二者が存在する)また別の修行者は、先に色業処(すなわち、色法の識別)を修習し、その後に、四大界と 24所造色の三相を観照する(+場合がある)。

しかし、色法を観照するだけでは、「至出起観」を生起させる事は不可能である。

彼は、必ずや、名法の三相を、観照しなければならない。

こうしたことから、受、想、行、識を、「これは名法である」と識別した後、彼は、名法の無常・苦・無我の三相を、観照しなければならないのである。

彼が、まさに色法を観照している時、その観智が聖道智と接するが、これが「色の観照から始めて、それは色から出起する」である。

(六)もし、まさに名法を観照している時に、その観智が聖道と接したならば、これはすなわち、「色より始めて、それは名から出起する」である。

(七、八)第五と第六に類似している。違いはただ「名の観照から始める」である。

(九)「一切の集起法は、最終的には壊滅する」(Yaṁ kiñci samudaya dhammaṁ、sabbaṁ taṁ nirodha dhammaṁ)を観照した後、至出起観智が生起するが、これがすなわち、五蘊からの出起である。

これは大慧利観(tikkha vipassaka mahāpaññā)比丘の禅観である。

註釈では、容易に識別できる名色法から、観禅の修習を始めると言うが、これは、すでに五摂受の修習に成功した場合の言であって、それは、まさに、思惟智の修習に転換した者を言う。

疏鈔が示しているのは、識別した名色法に関して、思惟智を修習した後、禅修行者は、必ずや、種々の技巧を運用して、不明晰な名色法を明晰にさせ、その後に、それらの三相を観照しなければならない、という提言である。

それは以下の理由による:

1、色法を観照しただけでは、聖道を証悟する事はできない。

2、名法(四名蘊)を観照しただけでは、聖道を証悟する事はできない。

3、内五蘊観照しただけでは、聖道を証悟する事はできない。

4、外五蘊観照しただけでは、聖道を証悟する事は出来ない。

《注意するべき要点》

観禅を修習する時(順序良く、繰り返し)、以下の事を実践する事:

1、ある時は内を観ずる(内五蘊);

2、ある時は外を観ずる(外五蘊);

3、ある時は色を観ずる(四大界と所造色);

4、ある時は名を観ずる(四名蘊);

5、ある時は無常相を観ずる;

6、ある時は苦相を観ずる;

7、ある時は無我相を観ずる。

観禅の修習の方法に注意する事。

なんら、概念法と究極法を区別する事なく、心の欲するままに、まさに生起しつつある法を、観照するのではない。

言い換えれば、概念法は、観禅の目標ではないのであって、唯一、究極法のみが、観禅の目標なのである。

《三相》

Eko āditova aniccato saṅkhāre sammasti.

yasmā pana na aniccato sammasanamatteneva

vuṭṭhānaṁ hoti・・・ 

(一)智でもって、行法の生・滅の本質を識別した後、ある種の禅修行者は、観禅の修習として、それらを無常として観照することを始める。

しかし、無常だけを観じても、至出起観は生起しない。

彼は、必ずや、行法が生・滅の圧迫を受けている本質を識別して、それを苦として観じなければならないし;

また、それらは壊滅しない、という実質を有していない、という事を識別して、それらを、無我として観じなければならない。

こうしたことから、彼は必ずや、苦と無我を観照しなければならないのだ、と言える。

彼がまさに、行法を無常であると観照している時に、至出起観が生起したならば、彼はすなわち、「無常の観照から始めて、無常から出起した」のである。

(二)もし、彼がまさに苦を観照している時に至出起観が出起したのならば、それはすなわち、「無常の観照から始めて、苦から出起した」のである。

(三)もし、彼がまさに無我を観照している時に至出起観が出起したのならば、それはすなわち、「無常の観照から始めて、無我から出起した」のである。

 苦の観照と、無我の観照から始めた出起もまた、斯くの如く類推する事。

上に述べた註釈によると、禅修行者は順序よく、繰り返し行法を観照しなければならない:

1、ある時は無常として;

2、ある時は苦として;

3、ある時は無我として。

《無我の光》

仏陀が世に出ても出なくても、無常相と苦相は、世間において顕現する;

しかしながら、もし、仏陀が世に出ないならば、無我相は、世間に顕現することはない。

智者であっても、たとえば、大神通を有するサラバンガ(Sarabhaṅga)菩薩であっても、法を無常と苦として、教える事は出来ても、無我を教示する事はできないのである。

もし、智者が行法を、無我として教示する事が出来るならば、その弟子または聴衆は、聖道果智を証悟することができる。

ただ、「一切知正等正覚者」(Sabbaññutā Sammāsambuddha)以外、無我相を教示するのは、どの様な人間、どの様な有情の能力の内にはないのである。注48。

故に、無我相は、顕著な相ではない(ことが分かる)。

仏陀は、無我相を(一)無常相と関連ずけて、または(二)苦相と関連ずけて、または(三)無常と苦相の二者と一緒に、纏めて教えるのである。

Nānādhātuyo vinibbhujitvā ghanavinibbhoge

kate anattalakkhaṇaṁ yathāvasarasato

upaṭṭhāti(Abhi-com、Vism)

ーーもし、究極法を知見するまで、一つひとつの色界(rūpa dhātu)と名界(nāma dhātu)を識別し、色密集と名密集を看破する事ができるならば、無我相(無我の光)は、禅修行者の智において、如実に顕現する。

色聚と名聚の中の究極界の相、作用、現起(現象)と近因を逐一識別する能力を有する時にのみ、色密集と名密集は看破することができる。

密集を看破した後で初めて、禅修行者は究極智を証得することができる;

と言うことは、この様にして初めて、無我の光は明るく、条件に合致して生起する事ができる;

無常・苦・無我を非常に明晰に観照している時にのみ、彼は聖道を証悟することができる。

こうしたことから、もし、人(=指導者)の教法に以下の概念が含まれている時、彼の教えは、正道から乖離しており、また、聖典に依拠したものでないことが分かる。色聚と名聚の分別が出来る時初めて、禅修行者は究極なる観智を証得することができる。

究極界を通して初めて、涅槃を証悟する事が出来る事に注意を払う事。

概念を通しては、涅槃を証悟する事はできないのである。

1、色聚と名聚を見る必要はない;

2、弟子(声聞)は色聚と名聚を見ることができない;

3、弟子は色聚と名聚の分別ができない;

4、弟子は、仏陀が教えた究極色と究極名を識別することができない;

5、一切知正等正覚者だけが、仏陀の教えた名色法を知見することができる。これは仏陀の能力の範囲にのみ、属するのである;

6、阿羅漢だけが、これらの名色法を知見することができる。

《聚思惟観法と個別法の観法》

Samūhagahaṇavasena pavattaṁ kalāpasammasanam.

Phassādi ekeka dhammagahaṇavasena

pavattā anupadadhammavipassanā.

二種類の観法がある。すなわち、理法観の聚思惟観法(kalāpa sammasana)と個別法の観法である。

名色法」、五蘊法、12処法、18界法、縁起法などに基づいて、名色または行法を二組、または五組、または12組、または18組などに分け、これらの組ごとに観を修習する。すなわち、聚思惟の理法観と呼ばれるものである。

(この観法においては、六処門と42身分の中の色法全体を『色」として取り、順序よく、繰り返しそれの三相を観照する。同様に、禅修行者は必ずや、過去、現在、未来、内と外全体の色法の三相を観照しなければならない。

名法に関しては、彼は一個の心識刹那の中の名法全体を「名」するか、またはそれらを受蘊、想蘊、行蘊と識蘊として観ずる。

過去、未来、現在、内、外等の観法もまた同様である。

色聚の中の一つひとつの色法(たとえば、地、水、火、風等)を対象に、逐一に観を修習し、また、逐一に、一個の心識刹那の中の一つひとつの名法(たとえば、触、受、想、思等)に対して観の修習をするのを、個別法観法と言う。

この二種類の観法の中で、《清浄道論》(第20章)では、観の修習を始めたばかりの禅修行者は、先に、聚思惟の理法観と呼ばれる方法から、修するべきだと指示している。

《縁起法》

 《清浄道論》(第20章)では、12縁起支もまた観禅の目標であると言及している。

Sappaccayanāmarūpavasea tilakkhaṇaṁ

āropetvā vipassanā paipaṭiya aniccaṁ

dukkhaṁ anattā'ti sammasanto vicarati.

(Mūlapaṇṇāsa Aṭṭhakathā)

この《中部・根本50經篇》の註釈において、観智の段階に応じて、名色とそれらの因の三相を観照するべきであると指示している。

これらの指示に基づいて、智でもって、諸々の縁起支の因果関係を識別する時、禅修行者は、時には因の三相を識別しなければならないし;

時には果の三相を識別しなければならない。すなわち、順序良く繰り返し、それらの無常・苦・無我を観照するのである。

観禅の修習をする禅修行者は、以下の通りに実践する事:

1、ある時には内を観ずる。

2、ある時には外を観ずる。

この二者に関して、また:

3、ある時は色を観ずる;

4、ある時は名を観ずる;

5、ある時は因を観ずる;

6、ある時は果を観ずる;

7、ある時は無常を観ずる;

8、ある時には苦を観ずる;

9、ある時には無我を観ずる;

10、ある時には不浄を観ずる。

’Asubhā bhavetabbā rāgassa pahānāya.’

ーー「貪欲を取り除く為に、不浄を修習するべきである。」

(《自説語・メギヤ經》Meghiya Sutta。Udana Pāli)

は、《メギヤ》經の中において、仏陀が貪欲(rāga)を取り除く為に、不浄観を修習する様にと指示している;

彼は《勝利經》(Vijaya Sutta)の中において、貪欲を取り除くために不浄観を修習する様にと指示している。

三相の中で、不浄は苦随観を「取り巻いて」いるが、この観法は、現在五蘊において、運用されなければならない。

次に、完璧三輪転教法(たとえば、《無我相經》)の中において、仏陀はまた、過去の五蘊と未来の五蘊観照する様にと指示している。これらの指示に基づけば、禅修行者は、現在の五蘊観照するのと同じ様に、過去蘊と未来蘊もまた観照しなければならない事を知らねばならない。

故に、彼は以下の事を実践しなければならない:

11、ある時は過去を観ずる;

12、ある時は未来を観ずる(合計12項目)。

これらは、禅修行者が観禅の修習を実践するに当たり、先に知っておくべき要点である。

次に、彼は各種の異なった方法によって、名色を観照することができる、たとえば、五蘊法、12処法、18界法、12縁起法支等々である。

この『禅修指南』では、主に、名色法によって観の修習をする方法を説明した。

注48:《智慧の光》では、諸々の弟子は、仏陀の教えた無我相を、そのまま伝え、教えるのだと言う。

(13-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>