<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
Paññādhika Sayalay による『禅修指南』日本語訳は、PDF化されて、2019年7月16日、<菩提樹文庫>にUPされましたので、hatena版は抹消いたしました。
第14章 : 道智と果定
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
第13章 : 行道智見清浄義釈
六処門によって、智でもって、名色法の生・滅を観照する;
また、七色観法と七非色観法によって、名色法の生・滅を観照する;
次に、光明から欲(nikanti)までに至る、観の随煩悩の究極法の生・滅を観照する。
現在刹那(khaṇa paccuppanna)まで来たならば、次に、その中の一個、己自身が最も好む所の法を選んで、徹底的に、順序良く、繰り返し、名色法の三相を、観照する:
1、名色法;
2、五蘊法;
3、12処法;
4、18界法。
内、外の三時を観照する。
この様に、順序良く、繰り返し、多数回、観照する事は、必須である。
明晰に、行法の現在刹那を知見できる様に、チャンレンジしてみる。
また、順序良く繰り返し、多数回、三相が、益々明晰になるまで、観照にチャレンジしてみる。
《四随観》
(一)色法を主として観照し、その後に、名法を観照するのは、身随念処の修習である。
(二)名法を観照する時、三念処(たとえば、受随念)を修習する禅修行者は、必ず、所縁色と依処色もまた、観照しなければならない。
名業処の段階において、すでに、言及した所の規則(saṁkhittena vā vitthārena vā pariggahite rūpakammaṭṭhāne)に基づいて、禅修行者は、必ず、簡略法と詳細法でもって、色業処を修習しなければならない。
唯一、それらを識別した後において、名法の観を修習する。
そうして初めて、受随観念処の修習であると、言われる。
この観法は、処門によって、一つひとつの心路過程及び、有分心の依処、所縁(目標)、受(=一切において、受は、最も顕著な名法である)を:
1、依処の生・滅;無常;
2、所縁の生・滅;無常;
3、受の生・滅;無常。
として観ずる。
この観法において、五門転向から意門彼所縁(名業処表参照の事)までの、一つひとつの心識刹那の(一)依処のみ;(二)所縁のみ;(三)受(=一切において、の受は最も顕著な名法である)のみ、の生・滅を観照した後、次にそれらの「無常」を観照する。
苦相と無我相の観法もまた、同様である。
三時の内外を出来るだけ、観照する。
(三)次に、名法の三種類の観法の中で、もし、人が先に、識が最も顕著な名法を識別した後、次に観禅を修習するならば、彼はすなわち、心随観念処を修習しているのである。
彼は、以下の事柄を、観照しなければならない;
1、依処;
2、所縁;
3、識(=一切において、識は、最も顕著な名法である)。
(四)次に、もし、人が先に、触(思)を、最も顕著な名法として、識別した後、次に観禅の修習をするならば、彼はすなわち、法観念処を修習しているのである。
彼は、以下の事柄を観照しなければならない;
1、依処;
2、所縁;
3、触(=一切において、触は、最も顕著な名法である)。
また、名色法でもって、観禅の修習をするならば、色法を観照した後、受から始めて、名法の観照をするのは、受随観念処であり;
識から始めて、名法を観照をするのは心随観念処であり;
触から始めて、名法の観照をするのは、法随観念処である。
また、以下の方法を採用して観禅の修習をするのも、また、法随観念処に属するものである。
1、五蘊法:名色を五グループに分ける;
2、12処法:名色を12グループに分ける;
3、18界法:名色を18グループに分ける;
4、縁起法:名色を12縁起支に分ける;
5、五蓋法;
6、七覚支法;
7、諦教法:苦諦と集諦の二組に分ける。
《威儀路と明覚》(iriyāpatha & sampajañña)
威儀路(行住坐臥)と身体行動(たとえば、前進、後退、屈、伸等)の中に生起する五蘊(=名色)を、観照する方法である。
これは、名業処の段階において、已に説明した。
これら五蘊または名色を識別した後、以下の方法を用いて、それらに対して、観の修習をする:
1、名色法:二グループに分ける。または;
2、五蘊法:五グループに分ける。または;
3、12処法:12グループに分ける。または;
4、18界法:18グループに分ける。または;
5、縁起法:12支に分ける。または;
もし、禅修行者が名色法によって、観禅の修習をしたいのであれば、彼は、以下の三相を観照しなければならない:
1、色法にみ、その後に
2、名法のみ、その後に
3、名色の二者。
三時の内外を観照する。
もし、已に内外三時を観照することができるならば、威儀路と身体行動における、五蘊(名色)の生・滅から、現在刹那(khaṇa paccuppanna)に至るまでの、それらの三時を、観照することができるのであれば、次には、縁起法の観の修習に、進むことができる。
以下を識別する:
1、「因が生起するが故に、果が生起する。」その後
2、「因が滅尽するが故に、果が滅尽する。」その後
3、「因が生起するが故に、果が生起する。因が滅尽するが故に、果が滅尽する。」。
因果の二者の生・滅を識別した後、交代しながら、それらの一つひとつの三相を観照する。
三時の内外を観照する。
ある時には、これらの名色行法の不浄相も観照する。
徹底的に、三相を観照した後、禅修行者は、己自身が最も好ましいと思う相を、主に観照する事も出来る。
名色法、五蘊法諸法の中において、己自身が最も好ましいと思うものを選んで、順序良く繰り返し何度も、多数回、観照する。
《壊滅随観智》(Bhaṅgañāṇa)
壊滅随観智に向かって
この様に、徹底的に四威儀路の行法を観照している時、前生観智と後生観智が、連続不断であるならば、観智は、非常に強く力のある、鋭利なものに変化する。
この時、もし、もはや、行法の生起に注意を払わずに、それらの壊滅に注意を払うならば、それはすなわち、
:Ñāṇe tikkhe vahante saṅkhāresu lahuṁ upaṭṭhahantesu・・・.
(Vism)。。
Na sampāpuṇāhti aggahaṇato.(Mahāṭīkā)。
彼の観智は、以下のものに到達しない(及ばない):
1、生起(uppāda):行法の生時;
2、住(ṭhiti):行法の住時;
3、相(nimitta):行相(saṅkhāra nimitta)、例えば色聚;
4、転起(pavatta):転起の執取。すなわち、「因が生起するが故に、果が生起する」の転起。
これは、彼が已に、それらの(すなわち、一から四)に注意を向けないのが原因である。
前生観智は、親依止縁力(upanissaya pccaya satti)の支援の下、後生観智相応の念が、已に、安定的に、行法の滅尽、壊滅、破壊と滅(その意味は、この観智は念によって主導されている)に安住している。
この時:
1、滅であるから無常(aniccaṁ khayaṭṭhena):
行法の滅尽、壊滅、破壊と滅を目標に取った後、それらを「無常、無常」と観ずる。
2、畏怖であるから苦(dukkhaṁ bhayaṭṭhena)
行法の不断に壊滅する畏怖を目標に取った後、それらを「苦、苦」と観ずる。
3、不実であるから無我(anattā asārakaṭṭhena):
行法は永恒の実質、または我を持っていない事を目標に取った後、それらを、「無我、無我」と観ずる。
4、ある時には、それらの不浄の本質を観ずる。
注意
行法の壊滅だけを目標に取り、それらの三相を観ずる修習をする時、それらの壊滅は、非常に速く発生する可能性がある。しかし、中等の速度でもって、無常相(及び苦相と無我相)を観照する事。
禅修行者は、多くの心路過程、または心識刹那、または多くの色法が壊滅するのを見るが、しかし、彼は、逐一、一つひとつの心識刹那または色法を「無常」として、観照してはならない;多くの心識刹那及び多くの色法の滅を目標に取り、中等の速度でもってそれらを「無常、無常」として観照する。
苦と無我への観法もまた、この様である事に注意する事。
名色法または五蘊法などを運用して、順序良く繰り返し何度も、三時の内外行法を観ずる。
色聚の消失
Nimittanti saṅkhāra nimiitaṁ、yaṁ saṅkhāranaṁ samūhādighanavasena、・・・(Mahāṭīkā)。。
見清浄における名色分別智によって、色密集と名密集が看破されたが、今、禅修行者は壊滅随観智の段階に到達した。壊滅随観智の前には、いまだ以下のものを、見ることができる:
1、生起:行法(すなわち、名、色、因と果)の生時;
2、住:行法の住時(老時);
3、転起:転起への執取(upādiṇṇaka pavatta)。すなわち、「因が生起するが故に、果が生起する」;または「有の転起」(bhava pavatti)も見る事が出来る。すなわち、過去因によって、有(新しい生命)が生起する。
4、相:已に、智でもって、色密集と名密集を看破し、究極法を知見しているものの、しかし、ある時には、些かの色聚と名聚を看破していない、または看破する事ができないでいる。
これは、色聚と名聚の数量が非常に大きいためであって、かつ、それらの生起は非常に速いが為でもある。
これらの色聚と名聚の色密集と名密集(たとえば、構成密集と作用密集)は、いまだ看破していないか、または看破することができないが故に、それらを色聚と名聚として見る事になる。これはすなわち、相(nimitta)を観ているのであり、それは、行法の発生の相である。
しかしながら、禅修行者が壊滅随観智に到達した時、その智が非常に鋭利で明晰である事から、行法は、極めて迅速に、その智に顕現する。
その時:
1、生起:その智は、二度と、行法の生時を見ることができない;
2、住:その智は、二度と、行法の住(老)時を、見ることができない;
3、転起:その智は、二度と、「有転起」を見ることができない。すなわち、無明、愛、取、行と業の諸因の生起、識、名色、六処、触と受の諸果(生有)の生起(+を見ることができない。)
その理由は:
その智は、二度と、因果行法の生時と住時に、住する事ができず、因果行法の、刹那生・滅と呼ばれる所の、壊滅時に住する様になるからである。
それは、二度と、執取転起(upādiṇṇaka pavatta)、すなわち、「因が生起するが故に、果が生起する」に住する事ができないのである。
4、行相:壊滅随観智では、禅修行者の観智が非常に鋭利で明晰な為、彼は二度と色密集と名密集(たとえば、構成密集と作用密集)などのいまだ、看破していない所の色聚と名聚を見る事が無い。
その理由は、有形の最も微細な小粒子である所の色聚と名聚は、相があって、識知することのできる行法であるが、それらは行相(saṅkhāra nimitta)と呼ばれる。
この時、観智はすでに、行相を観照することはなく、ただ刹那滅と呼ばれる所の壊滅をのみ見るのである。
この時の観智は、色聚と名聚を見ていないが、禅修行者の壊滅随観智によって、非常に明晰に、究極色法と究極名法を見ることができる。
これは、その前の観智とは異なって、それはすでに、完全に究極界に到達しているのである。
実際、すでにこの段階に到達した禅修行者は、壊滅の極めて迅速なのを看て、彼は以下の方法を運用して、内外の三時の名色法の三相を観照する:
1、色のみを観ずる;その後に
2、名のみを観ずる;その後に
3、同時に名色法を観照する。
次に、過去、現在、未来、内、外等、11種類の形式で存在している五蘊をグループに分けて、五蘊法によって、徹底的にそれらの三相を観照する。
註:以下の事に注意する事。
これは、壊滅随観智の時にだけ、行法は一つひとつ迅速に生起するのだという意味ではない。行法の本質は、一回の瞬きの内に、または放電の間、または一弾指の間、それはすでに、何億回と生・滅しているのである。故に、観智がいまだ鋭利でない前、それはこれらの行法の真実の本質を見ることができないのである。
しかしながら、壊滅随観智の時、禅修行者の観智が非常に鋭利、明晰になるが故に、その観智は、極めて迅速に壊滅する行法を見ることができるのである。
もう一点、禅修行者が行法の生時、住時、転起と(行)相に注意を払わない時、その智は、それらを見ることができない。注意するべきは、これはすなわち、それらに注意を払ったならば、彼は見ることができる、という事である。
観の修習の観智を観照する(反観 paṭivipassanā)
Ñātañca ñāṇañca ubhopi vipassati.
禅修行者が斯くの如くに、観智でもって、行法の壊滅だけを見る時、彼は必ず、以下の観照を、実践しなければならない。
1、「所知」(ñāta)と呼ばれる所の、行法、すなわち、三時の内外の色法、名法、因と果:
2、智(ñāṇa)と呼ばれる所の観智。すなわち、これらの「所知」(ñāta)を観照する観智。
彼は、必ず、この二種類の、所知と智と呼ばれる法を観照しなければならない。智と呼ばれる観智とは、意門速行心路過程であり、彼所縁は生起する場合もあれば、生起しない場合もある。
この段階においては、已に「強力な観智」(balava vipassanā ñāṇa、たとえば、厭離随観智)に接近している為、彼所縁は殆どの場合、生起しない。
意門転向=12
速行=34/33
有因彼所縁=34/33
無因彼所縁=12/11
禅修行者は、順序良く繰り返し観修習の観智(反観の修習、paṭivipassanā)すなわち、上に述べた、意門速行心路過程の三相を観照しなければならない。
幾つかの観法の例
1、色、色の壊滅:無常の観照;
2、名、名の壊滅:無常;観修習の智もまた壊滅する:無常の観照。
以下の三相を順序良く繰り返し観照する:
1、ある時は内を;
2、ある時は外を:この二者を;
3、ある時は色を;
4、ある時は名を;
5、ある時は因を;
6、ある時は果を。
過去と未来の観法もまた同様である。
過去、未来、現在、内、外等11種類の形式で存在している五蘊をグループに分けて、五蘊法に基づいて、同様にそれらを観照する。
この段階において、《無我相經》(Anattalakkhaṇa Sutta)の中で言及されている所の五蘊観法は、禅修行者から見て、非常に貴重なものであり、それは観智を成熟させることができる観法である。
壊滅随観智でもって、因果を観照する段階において、不作意によって、「因が生起するが故に、果が生起する」故に、二度と執取転起を見ることがないにしても、しかし、縁摂受智、思惟智と生滅随観智の時に、禅修行者は観照に善くし、またこの執取転起法を知見するが故に、もし、彼が因(たとえば、無明)と果(たとえば、行)を目標に取りたいのであれば、彼は非常に容易にそれを見ることができる。
これらの因果の壊滅は、観智によって観照されることが出来る。
壊滅を観ずる力量
ここでは、壊滅随観智に到達したばかりの(+修行者の)話ではないものの、いまだ智が成熟していない禅修行者は、一旦座禅・瞑想を始めると、ただ行法の壊滅のみが見えることがある。壊滅随観智の修習を始めたばかりの頃で、しかし、いまだそれを証得していない時、ある種の程度において、生と滅の二者が見える事がある。
観智が鋭利になった時、すなわち、二度と行法の生時を見なくなり、ただ行法の壊滅時をのみ見る様になる。
壊滅随観智が頂点に到達した時、ただ行法の壊滅時をのみ見る様になる。(《大疏鈔》)。
Tato pana pubbabhāge anekākāravokāra
anupassanā icchitabbāva.(Mahāṭīkā)。
壊滅随観智を成熟させる為に、必ず、壊滅随観智が頂点に到達する前、各種の、異なった方法でもって、観の修習をする事。
己自身の好む法を主として観照する
行法の壊滅を観照する壊滅随観智の段階では、もし、色法を観照する方が比較的良好であるのであれば、禅修行者は色法を主として、観照するのは可能である;
もし、名法を観照する方が比較的良好であれば、名法を主として、観照するのは可能である。
上に述べた方法で、徹底的に、多数回、(たとえば、名法)を観照し、また、壊滅随観智が非常に強くなった時に初めて、この様に観照することができる。たとえば、ただ(名法の)善速行心路過程を主として、観照する(+などである)。
もし、禅修行者が止行者である時、彼はジャーナ名法を主に観照することができる。
三相に関して、もし、彼が、すでに、三相を運用して、徹底的に観の修習をしているのであれば、彼はただ、己自身の好む、かつ最も有効な相を観ずる事が出来る。
禅修行者は、「依処、所縁、受」;「依処、所縁、識」;「依処、所縁、触」と観照する事ができる;観修習の智の壊滅も含めて(+観ずる時)、その観法は以下の通りである:
1、依処、依処の壊滅:無常;観修習の智の壊滅:無常の観照。
2、所縁、所縁の壊滅:無常;観修習の智の壊滅:無常の観照。
3、受、受の壊滅:無常;観修習の智の壊滅:無常の観照。
次に、同様の方法によって、「依処、所縁、識」;「依処、所縁、触」を観照する。内外三時のすべての六門を観照する。
威儀路と明覚の観法に関して、身体の姿勢と動作の内の行法を目標として取り、それを観照する。
また、諸々の縁起支の壊滅を目標に取り、それらの三相を観照する。
こkでは、壊滅を目標として観の修習をし、二度と「無明の縁ありて行あり」等の因果関係を目標としない。
内外三時を観照しなければならない。
ある時には観修習の智を観照するが、これは反観(paṭivipassanā)である。
この段階から聖道を証悟するに至るまで、禅修行者は必ず、内外三時の行法(名、色、因と果)の壊滅を観ずる事;ある時には、観修習の智の壊滅を観照する事。
《壊滅随観智から行捨智まで》
禅修行者が、三界三時内外の諸々の行法の刹那を所縁とする時、壊滅随観智によって、順序良く繰り返し何度も観照し、また、継続的に不断に、已に到達した更に高度なレベルの壊滅随観智によって、行法の壊滅を観照する。
三界の中の行法、または名色蘊の苦相(すなわち、不断に壊滅の圧迫を受けている)はすでに非常にはっきりとしており、静楽であると考えられている色界または無色界であっても、(+それを見れば実は)非常に恐ろしいものであって、この観智はすなわち、畏怖現起智(bhayatupaṭṭhāna ñāṇa)でもある。
この時、徹底的に過患を見る観智は、過患随観智(ādīnavānu passanā ñāṇa)であり、過患とは、無常過患、苦過患、無我過患及び変易(vipariṇāma)過患であり、(+禅修行者は)三界三時内外の、諸々の行法の、変易の過患に、対面しなければならないのである。
この様に、徹底的にこれらの過患を見た時、三界三時の一切の行法に対して(+生じる所の)、厭離の観智は、厭離随観智(nibbidānupassanā ñāṇa)である。
心がすでに、厭離を感じ、二度と、三界三時の中の、どの行法にも、執着しない時、その心中には、一切の行法から解脱したいと願う欲(chanda)が生起する。
過去と未来の一切の行法からの解脱を欲する観智は「欲解脱智」(muñcitukamyatā ñāṇa)と言う。
一切の行法から解脱したいと欲する心は、再度、観智によって、一切の行法を分別と識別をした後、禅修行者はこれらの行法を無常・苦・無我と不浄であると観じるが、この観智は審察随観智(paṭisaṅkhānupassanā ñāṅa)と言う。
この段階において、再度、前の、思惟智の段階ですでに述べた所の、40種類の観法を修習する。
(その他の方法に関しては、《清浄道論》を参照の事)
もし、聚思惟法によって、徹底的に、また順序良く繰り返し三界三時の中の行法を観ずる時、たとえば、
内観と外観を、順序良く繰り返し観ずる;
因と果を順序良く繰り返し観ずる;
無常・苦・無我を順序良く繰り返し観ずる。
これら行法の壊滅は、非常に明瞭に、迅速に(壊滅は、非常に粗く顕現する様になる)顕現する。
引き続き、三相に基づいて、壊滅を、順序良く繰り返し、観照する。
もし、その様に観照することができるのであれば、「観修習の心」(vipassanā bhāvanā citta)は、徐々に行法に対して、無憂無欲となり、それに対して、ただ捨のみである、という段階に到達する。
あの観修習の心は、ただ静かに、所縁、すなわち、行法の壊滅を観照するのみになるのである。
観修習の心が斯くの如くに平静である時、色、声、味、触の五所縁を識知する五門心路過程は生起しない。観ぜられる名法の側にて、生起するのは、意門速行心路過程であり、まさに観照している観智のこちら側で、生起するのは同じく、ただ意門速行心路過程だけである。
三相に基づいて、色と名、内と外を順序良く繰り返し観ずる、できるならば以下の様に修習する:
1、内行法を観ずる時、観修習の心は、安定して、平静に、内行所縁を観照出来る。その時は引き続き、ただ内行法をのみ観ずる。また
2、外行法を観ずる時、観修習の心は、安定して、平静に、外行所縁を観照出来る。その時は引き続き、ただ外行法をのみ観ずる。もし、未だ、不断に順序良く繰り返し内と外を観ずるならば、修観の定(vipassanā samādhi)は、減退する可能性がある。
同様に、もし:
1、色法を観ずる時、観修習の心は、安定して、平静に、色行所縁(の壊滅)を観照出来る。その時は引き続き、ただ色行法をのみ観ずる。また
2、名法を観ずる時、観修習の心は、安定して、平静に、名行所縁を観照出来る(名行の壊滅を観照する)。その時は引き続き、ただ名行法をのみ観ずる。もし、未だ、不断に順序良く繰り返し色と名を観ずるならば、修観の定(vipassanā samādhi)は、減退する可能性がある。
《大念に基づいて修行する道》
ここでは、念でもって、勤修するべき段階(+が来たと言える)。(+それは)信と慧及び精進と定をバランスさせる為である。
唯一、信、精進、念、定、慧の五根がバランスする時にのみ、聖道と聖果は証得されるが故に。
名を壊滅(+という現象)を所縁として、それの三相を観ずる。
上に述べた一切の観法をみな完成させて、行法壊滅の捨を証得しようとする時、法所縁グループの善速行心路過程名法を主に観照する。
もし、禅修行者が止行者であれば、この時彼は、ジャーナ名法(すなわち、ジャーナ定心路過程の中のジャーナ法)を主として観照するが、三相の中では、無我の観照を主とする。
この様に観照する時、観修習の心は、平穏で平静になって、行法の壊滅を観ずる様になる。
その時、禅修行者は外の音などなどを、聞かなくなる。
もし、観修習の心が平穏で平静になって、行法の壊滅を観ずる時で、外の音が聞こえないならば、不動揺で、安寧であり、観修習の心の力は非常に大きなものに変化する。
上に述べた様に、この時、すでに「ある時は内観、ある時は外観」の観法を採用するのを停止しており、故に、ただ引き続き内のみを観ずる;
もし、観修習の心が平静に外を観ずるならば、引き続き、ただ外のみ観ずる;
もし、観修習の心が平静に色を観ずるならば、引き続き、ただ色のみ観ずる;
もし、観修習の心が平静に名を観ずるならば、引き続き、ただ名のみ観ずる。
この様に観照する時、三相の内の最も好ましい一個を選んで、それを主とする。
この様に観照する時、ある種の禅修行者は、同時に名色の二者を観照するのを好み;ある種の禅修行者は、ただ色のみ観ずるのを好み;ある種の禅修行者はただ無常をのみ観ずるのを好み;ある種の禅修行者は、ただ苦のみ観ずるのを好み;ある種の禅修行者は、ただ無我を観ずるのを好む。
禅修行者は最も己自身に適合する行法及び相でもって観照することができる。この様に観照する時、ある種の禅修行者は、ただ名法の壊滅をのみ見て、色法の壊滅は見ない。もし、この様であれば、名法の壊滅をのみ観じて、見えない色法の壊滅を、無理やり探して、見る必要はない。
実際は、もし、禅修行者が純観行者である場合、壊滅の名法の多くは、将に修観している所の、意門速行心路過程及び有分である。
後生の心路過程によって、前生心路過程を観照する時、緊接してやってくる「修観速行心路過程」(vipassanā javana vīthi)は、一個前の「修観速行心路過程」を観照するのである。
もし、禅修行者が止行者である場合、壊滅の名法は、ジャーナ定心路過程の中の名法、及び「修観速行心路過程」の中の名法である。
この時、引き続き、徹底的に、彼が主に観照している所の、ジャーナ名法、及び修観速行心路過程名法を観ずる。
止行者にとって、もし、彼が、比較的好ましいと思うのが、ジャーナ名法の無我相であるならば、それはよい傾向である。
ある種の禅修行者は、色と名の二者を見ることがあるが、実際は、彼は、順序良く交代に、名と色を所縁するか、または同時に名と色の二者を所縁として、引き続き、己自身が最も好ましいと思う相でもって、それらを観照する。ある時には観修習の智を観照することもできる。
この様に、各種の方法でもって、観照するならば、非常に良好に、欲、色、無色の三界行法の捨を育成することができる。同時に、行法への厭もまた育成することができる。
Byayañca nandiñca vippahāya sabba saṅkhāresu
udāsino hoti majjhatto.(Vism)。
行法は過患であると見極め、また、諸行からの欲解脱心が、行法の壊滅の三相を観照する時、またその上、如何なる行法も「私、私の」として執取することができないならば、また、畏怖(bhaya;諸々の行に畏怖を感じる)と楽(nandī;行を楽しむ)の、二つの極端を捨棄した後、一切の行法の捨が生起する;この智はすなわち、行捨智である。
智見清浄に向かって
行捨智から聖道へ
すでに成熟した行捨智が寂界涅槃(santa dhātu、寂界=それは名色行法から脱離している為、無生滅の界である)を見たならば、心は、諸々の行の生起を捨棄した後、二度と行の壊滅を見ることはなく、無行(=無生滅)の寂界涅槃に入るのである。(Vism)。
もし、行捨智がいまだ寂界涅槃(また寂楽とも)を見ていないならば、行捨智はいまだ成熟いていないのであり、尚不断に行の壊滅を所縁にして(+修習を続けなければならない)。(Vism)。
もし、この様であれば、行捨智を成熟させる為に、徹底的に以下のものを観ずる:
1、ある時は、無常相を観ずる、
2、ある時は、苦相を観ずる、
3、ある時は、無我相を観ずる、
4、ある時は、色法を観ずる、
5、ある時は、名法を観ずる、
6、ある時は、内観を観ずる、
7、ある時は、外観を観ずる、
同様に、徹底的、順序良く繰り返し(8)と(9)の三相を観ずる:
8、ある時は、因を観ずる、
9、ある時は、果を観ずる。
継続して、同様の方法でもって、再度、五蘊法でもって観の修習をする。
もし、禅修行者が止行者である場合、彼は、己自身が比較的好ましく思うジャーナ定心路過程名法の無我相を主に観照する。
たとえば、第四禅ジャーナ名法の無我相を主に観照する。
ある時は、「修観速行心路過程名法」を観照することもできる。
行捨智が成熟した時、以下を体験証悟する(1から2へ至る):
1、転起(pavatta):行法の壊滅。
2、無転起(apavatta):行法の不生不滅。
もし、いまだ証得することができないならば、個別の観法()の修習にチャレンジしてみる。
たとえば、先に初禅に入り、初禅から出定した後、初禅の34ジャーナ名法を識別し、次に、逐一、これらの名法の三相を観照する。
内観と外観を修習する。
同様の方法を用いて、すべての、その他の、己自身がすでに証得した所のジャーナ(非想非非想処禅は除く)を観照し、すべての三相を観照する。
また個別の法観法でもって、欲界の名色法を観照する。
個別の法観法でもって、色法を観照する時、逐一、一つひとつの色聚(たとえば、眼十法聚)の中の一つひとつの究極界(たとえば、地界)の三相を観照する。
逐一に、六処門と42身分の中の一切の色法を観照し、順序良く繰り返し内観と外観を修習する。
(声聞弟子は、個別の法観法で非想非非想処禅の名法を観照する能力を有しない。ただ、聚思惟法によって、それを観照するしかないが故に、このジャーナは、個別法観法の中に列挙されない。)
禅修行者は個別の法観法を修習する事を通して、道果智を証得することができる。もし、証得することができないのならば、次に、聚思惟法(すでに述べた)の思惟智から行捨智までを修習する、禅修行者は己自身の波羅蜜に応じて成就することができる。
(15-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《縁起第一法》
’Nāyaṁ、bhikkhave、kāyo ・・・daṭṭabbaṁ’
’Tatra kho、bhikkhave、sutavā ・・・nirodho hoti.’
(Saṁyutta Nikāya)
「比丘たちよ。
これら色身と名心(一切の色法と名法)は、あなたのものではなく、(その意味は、それはあなたの「我(私)」ではない。というのも、それは「無我」であるが故に)、また他人(それは他人の「我」ではない)に属している訳でもない。これらの色心と名心は、過去の古い業によって生じた法であり、善業と悪業によって構成されており、善思と不善思がそれらの基因である。それらは受の依処である。
比丘たちよ。
聖教聞(āgama suta、理論上の智慧)と証得聞(adhigama suta、実修上の智慧)の聖声聞弟子は、縁起の観に長じている;
もし、この因があるならば、この果は、すなわち、生起する。
この因の生起により、この果が生起する。
もし、この因がないならば、この果は生起しない。
この因が滅尽したならば、この果は滅尽する。
縁起は以下の様なものである:
『無明が生起するが故に、行が生起する;
行が生起するが故に、(果報)識が生起する・・・
この様に、これは苦があり、楽の無い集である。』
『無明が滅尽(阿羅漢道によって断じ除かれた)するが故に、行が滅尽し、(果報)識が滅尽し・・・この様に、これは苦があり、楽のない集の滅尽である』」
上に述べた教法に基づけば、禅修行者は縁起第一法によって、観禅、すなわち、集のみを観じ、その後に滅のみを観じ、次に集と滅の二者を観ずる観禅を修習するべきである。
随観集法(samudayadhammānupassī)
縁起第一法に基づいて、因果関係を識別した後、次に生起を観照する。
たとえば:
1、無明が生起するが故に、行が生起する;
2、行が生起するが故に、結生識が生起する;
行が生起するが故に、有分識が生起する;
行が生起するが故に、死亡識が生起する;
行が生起するが故に、眼識が生起する;などなど。
内と外を観ずる。三世の間の因果関係を連貫させる方法によって、最も遠い過去世から、最も後ろの一個の未来世までを観ずる。
すでに縁起第一法に修習に熟練した禅修行者は、上記の修習に困難はない。
随観滅法(vayadhammānupassī)
その智が、最後の一個の未来世の縁起(たとえば、「無明が生起するが故に、行が生起する・・・)に対して明晰な(+認識の有る)禅修行者は、次に、未来において、阿羅漢道を所得する時の、無生の滅を観照する。
たとえば、阿羅漢道が引き起す所の「一切の煩悩(たとえば、無明)が滅尽して、二度と生起しないが故に、一切の果(たとえば、行)は滅尽して、二度と生起しない。」(+を観照する)。
次に彼は、以下の様に観照をしなければならない:
1、無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;
2、行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、死亡識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する、などなど。
三時の内外の滅尽のみ観ずる。
随観集滅法(samudayavayadhamānupssī)
観智でもって、生・滅の二者を観照する。たとえば
「無明が生起するが故に、行が生起する;
無明が滅尽するが故に、行が滅尽する・・・」
次に下記の如くに観照する:
1、無明が生起するが故に、行が生起する;
無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;
無明(生・滅)無常、行(生・滅)無常。
2、行が生起するが故に、結生識が生起する;
行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;
行(生・滅)無常、結生識(生・滅)無常。
3、行が生起するが故に、有分識が生起する;
行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;
行(生・滅)無常、有分識(生・滅)無常。
4、行が生起するが故に、眼識が生起する;
行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する;
行(生・滅)無常、眼識(生・滅)無常。
縁起第一法に基づいて、因果関係を識別する事に熟練した禅修行者は、上に述べた例を参考に、この程度まで修習することができる。
彼は、引き続き、「有」まで、この様に観照しなければならない。すなわち、業有と生有。
縁起第一法において示した通り、六所縁グループすべてに波及する所の縁起支は、皆、六グループすべてを観照しなければならない。
過去、未来、現在の三時の内外を観照する。
三世を連貫させる方式を用いて、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世の三相を観照する。
少なくとも、上に述べた様に、徹底的一回は観照する事。
《生滅観の進展》
Santativasena hi rūpārūpadhama udayato、
vayato ca manasikarontassa ・・・.
一世において、結生から死亡までの名色法は、現在世法(addhāna paccuppanna dhamma)である。
一個の心路過程の中の、名法は、現在相続法(santati paccuppanna dhamma)と呼ばれる。
一粒の色聚の火界(時節)、四、または五または六代の色法を製造する過程は、「一時節所造色法過程」と呼ばれる。
色聚の中の食素が食生食素の支援の下、それは、四、五、または六代の色法の過程を製造することができる。
この過程を「一食所造色法過程」と言う。
四等起色の中の一個の時節、または一個の食素が造る色法の過程は、現在相続法と呼ばれる。
生、住、滅の三小刹那に分ける所の、一個の心識刹那の中で発生する名法、及び、生、住、滅の三小刹那の中で発生する色法は、現在刹那(khaṇa paccuppanna)の名色法、と呼ばれる。
先に、禅修行者は必ず、現在相続名色の生・滅を観照しなければならない。徐々に、観の修習による智が強固で、鋭利、明晰になった時、連続して、間が不断なる行法の生・滅が、はっきりと、現在刹那に至るまで、その智に顕現する様になる。
始め、禅修行者は、縁生滅法(paccayato udayabaya dassana)を修習して、それを見る。
たとえば、
「無明が生起するが故に、色が生起する;
無明が滅尽するが故に、色が滅尽する。」
その後、彼は諸々の因を横に置いて(すなわち「無明が生起するが故に、色が生起する;無明が滅尽するが故に、色が滅尽する」を観ない)、観智でもって、生・滅の本質を有する所の因蘊と果蘊を観照する。
言い換えれば、禅修行者は先に、縁生滅法によって、「因が生起するが故に、果が生起する;因が滅尽するが故に、果が滅尽する」を観照するのである。
次に、これらの蘊の刹那生滅を観照する。
たとえば、
無明が生起するが故に、色が生起する;=見縁生法
無明が滅尽するが故に、色が滅尽する;=見縁生法
無明(生・滅)無常=見刹那生滅。
色(生・滅)無常=見刹那生滅。
もし、過去の如くに多数回観照したならば、禅修行者の智は、鋭利、明晰に変化する。そして、一つひとつの刹那の中において、生・滅する所の名色法もまた、その智において明晰に顕現するのである。
この様に明晰である時、生滅随観智の「初観智」(taruṇa vipassanā ñāṇa)と呼ばれる智を証得することが出来る。故に、禅修行者は「初観者」(āraddha vipassaka)と呼ばれるのである。(《大疏鈔》)
《10種類の随煩悩》(upakkillesa、また染とも)
見縁生滅と見刹那生滅の二種類の方法でもって、徹底的に、初観を証得するまで、観の修習を実践し、また過去、未来、現在、内、外などの五取蘊を観じた後には、(+禅修行者において)10種類の観の随煩悩は自然的に発生する。
(一)観の光明(Vipassanobhāso)
Vipassanobhāso vipassanacitta samuṭṭitaṁ、 sasantatipatitaṁ utusamuṭṭhānañ bhāsuraṁ rūpaṁ.(《大疏鈔》)
この光明は、「観の修習の心」が引き起す所の心生色である。
この心生色は、新しい時節生色を製造することのできる火界を具有している。これらの心生色と時節生色は、内部で生起するが、外部のあるのは、唯一時節生色聚のみである。
もし、これらの内部から生起する所の心生色聚を識別するならば、八種類の色法を見ることができる。内在する時節生色聚もまた、この八種類の色法であり、この八種類の色法の中の色所縁(色彩)は、非常に明るいものである。
光が、外で生起する事ができる理由は、時節が製造する色聚は外部に向かって拡散するからであり、これらの色聚もまた八種類の色法である。
禅修行者は必ずこの八種類の色法の、無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。
こうしたことから、光明に対して観の修習をしたいと思う禅修行者は、どの様な修行をすればよいのであろうか?
彼は必ず、光の四界から色聚が見える様でなければならない。その後に、これらの色聚を識別するのである。
内光明は、八個の色法を具有する心生色聚と時節生色聚であり、外光明は、八個の色法を具有する時節生色聚である。
智でもって、この八個の色法の生・滅を「無常」として観ずる;
それらを、不断に生・滅の圧迫を受けているのを「苦」であると観ずる;
それらを壊れない実質を持たない、または我ではないと見るのは「無我」である。
《アビダンマ》によると、一切の光は、皆、一団の色聚に過ぎないのであり、これらの色聚の中の色所縁の明るさなのである、と言う。
諸々の色聚が一か所に集まって生起する時、それらの色所縁は、連合する。
故に、禅修行者は初め、それらが連続して不断の様に見える。が、しかし、それらの四界を識別してみれば、それらは色聚に変化して、更に識別すれば、それらは八種類の色法を具備する色聚であることが分かる。
この段階においては、この八種類の色法の生・滅を、無常・苦・無我の三相として観照しなければならない。
これが、光明を克服する方法である。
(二)智(ñāṇa)
Ñāṇanti vipassanāñāṇaṁ、 tassa kira rūpārūpa dhamma・・・
この時、観智は非常に鋭利になっている。
どれほどの鋭利さか?
名色の無常・苦・無我の三相を観照する時、観智は電気の様に、障礙物の無いが如くに、迅速に進行する。
無常・苦・無我の三相を観ずる智は、非常に鋭利に、力あるもの、清浄になる。
(三)喜(pīti)
Tassa kira tasmiṁ samaye khuddakāpīti、khaṇikā pīti・・・.
この時、五種類の喜あ、禅修行者の智の中に生起する。
小喜(khuddaka pīti)は、体毛を立たせる程の喜である。
刹那喜(khaṇika pīti)は、異なった時間に、電光石火の様にして出現する喜である。
継起喜(okkantikā pīti)は、一陣一陣の波の様に、不断に生起する喜である。
勇躍喜(ubbegā pīti)は、身体を浮かせる事が出来る程の喜である。
遍満喜(pharanā pīti)は、勝心生色が全身に遍満する為に生起する喜である。
禅修行者は、まるで油の中に浸された綿花の様に感じがして、全身が勝心生色に満たされる。観の修習心と相応する喜が全身を遍満する為、禅修行者はその喜が、全身に拡散するのを感じる事がある。
(四)軽安(passaddhi)
観智と相応する軽安心所である。
Tassa kira tasmiṁ samaye rattitthāne vā divātthāne・・・
honti.
六対の「双対心所」(yugala cetasika)がある:
身軽安と心軽安;
身軽快性と心軽快性;
身柔軟性と心柔軟性;
身適業性と心適業性;
身練達性と心練達性;
身正直性と心正直性。
この時、この六対の心所は非常に力のあるものとなる。
経典の中では、それらの中で、軽安が最も顕著であると言及している。
(五)観の楽(sukha)
Tassa kira tasmiṁ sanaye sakāla sariraṁ・・・。
この時、殊勝な楽が全身を遍満する。
観の修習によって、引き起された心生色は、勝心生色(paṇīta cittaja rūpa)と呼ばれる。この勝心生色が全身を遍満する時、これは観智に相応する楽と言う。
(六)勝解(adhimokkha)は堅信
Adhimokkhoti saddhā. vipassanā sampayuttoyeva hissa
citta・・・.
これは、観智と相応する信である。
彼は已に、名色の因果の存在を肯定しており、已に因と果の二者が皆、無常・苦・無我の本質を有している事を肯定している;
過去、現在、未来、内、外の諸々の行法の存在も肯定している。
智が顕著になる時、その信もまた、非常に堅固になる。故に、観智と相応する信は、非常に堅固なものになるのである。
(七)策励(paggaha)
これは、禅修行の精進力である。正精進道支である。
Vipassanā sampayuttameva hissa asithilaṁ・・・.
この時、極めて強い精進が観智と相応する。
この精進支は、その他の相応名法が倒れない様に支え、それはゆるからず、きつからずの身精進(kāyika vīriya)と、心所精進(cetasika vīriya)となって、観の修習のおいて、目標から抜け出さない(+という作用を起す)。
禅修の期間、時には怠惰になるものであろうか?
禅修行者は、禅修を止めて、以下の様に言う:
「禅修に意義はない」
禅修を実践したくないという念は、起きないであろうか?
この時、その様な考えが起きない様に、精進は、その他の相応する名法の極めて強力な支援となって、それらが禅修の目標から退出しない様にせしめるのである。
(八)現起(現象)(upaṭṭhāna)は念
Vipassanā sampayuttāyena hissa supatthitā ・・・.
これは、観智と相応する念である。
この念は、城門の柱の様に、一本ごとに、10フィートの高さを持ち、10フィートの深さで、埋められている柱は、四方から吹く風で動揺する事がない;同様に念は、観の修習心を平静にして、目標、すなわち、名色因果を観照せしめるのである(これは名色因果行法の無常・苦・無我の三相を観照する段階の事である)。
それは、一座の高山の様でもあり、暴風雨もまたそれを動揺させることができない;
同様に、念もまた、観の修習心を保持して、平静に目標を観照する。
So yaṁ yaṁ thānaṁ āvajjaati samannāharati・・・.
天眼通を証している人は、もし、彼がその他の世界を観てるならば、彼はその他の一切の衆生を見ることができる。
同様に、この段階において、禅修行者がどの様な目標、または名、または色、または因果、または過去法、または未来法、または内、または外を観照しているにしても、それらの目標は、非常に迅速にその観智の上に顕現する。
その時、念は極めて強大である。
(九)捨(upekkhā)
Upekkhāti vipassananupekkhā ceva āvajjanupekkhā ca.
諸々の捨の中において、その中の二個は、観捨(vipassanā upekkhā)と転向捨(āvajjana upekkhā)である。
Tasmiṁ hissa samaye sabbasankhāresu majjhatta bhūtā vipassananupekkhāpi ・・・.
転向捨とは、観智速行の前に生起する意門転向であり、それは転向捨と呼ばれる。
というのも、それは、捨相と相応する名法であるが故に。
観捨は、観智と相応する所の中捨性心所(tatramajjhatatā)である。
もし、その時、観智が喜俱智相応である時、すなわち、34の名法がある時、中捨性心所はその中の一であり、それは心の平捨を保ちながら、目標を観照することができる。
この時、それは極めて強大である。
どれほど強大であるか?
それは、帝釈天の繰り出す雷の様である。
それは、中捨的に、行法の無常・苦・無我相を、観照することができ、何等の欲求も憂慮もしない。
行法の無常・苦・無我相が非常に明晰に、観智に顕現するが故に、行法に対して、何等の欲求も執着も生じない。
たとえば、ある人が、己の愛する人の過患を見る時、彼に対して平捨を保つ事が出来ないであろうか?
同様に、禅修行者が行法の無常過患、苦過患と無我過患を見る時、行法に対して、中捨と無憂無執着の能力を保持するのである。
(10)欲(nikanti)は観智への執着
Evaṁ obhāsādipatimanditāya hissa vipassanāya
ālayaṁ kurumānā ・・・.
ある時には、上に述べた九法(すなわち、観の光明から、観の捨まで)の観智に対して、好ましい気持ちが生じる事がある。
それはすなわち、欲である。
それは非常に微細であり、故に、通常、禅修行者はそれを察知することができない。
観智が非常に強大になる時、禅修行者は喜ばないだろうか?
喜ぶのである。
観の修習の智は、意門転向と七個の智相応速行の心路過程に生起する為、それは、上に述べた九法すべてに相応する可能性がある。
禅修行者は、必ず、それらの無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。
この様に観すれば、喜と軽安が最も顕著な名法に対する執取を断じ除く事が出来る。
若し、欲がいまだ生起するならば、欲が最も顕著な「貪速行意門心路過程」の無常・苦・無我の三相を観照する。
これが、それを克服する方法である。
この様に修習して、観智を非常に鋭利なものに変化せしめる。
この10種類の観の随煩悩は、以下の四種類の人間には発生しない:
1、已に聖道聖果を証得した聖声聞弟子、及び已に強力な観智(たとえば、厭離随観智)を証得した禅修行者。(《大疏鈔》)
2、法を間違えて修習した人。たとえば、戒律が腐敗している、定力がない、また邪慧を修習する人。
3、ある種の人々にとって、彼らはまさに、観禅を修習しているのではあるが、それに対して失望しており、故に、観禅の修習から撤退しているか、または放棄している。
4、戒行を具足しているものの、怠惰で観禅の修習に取り組まない人。
反対に、それらは必ずや、正確な戒・定・慧を修習している正行者(sammāpatipannaka)、すなわち、継続して、勇猛果敢に慧の精進をする初観者(āraddha vipassaka)において、発生する。
10種類の観の随煩悩の中で、第二項の智から第九項の捨までは、雑染法であるとは、限らない。
智、喜、軽安、楽、勝解、策励、現起(現象)、捨の八法は、観修習の智と相応する心所行法であり、それは観智相応の心識刹那の中の34名法(心と心所)の一部分である。
凡夫と学者にとって、この八法は、ただ「観善速行」であって、雑染とは言えない。
しかしながら、これらの法を目標に取った後、もし、禅修行者が「これらの法は私のものである;これらの法は私である;これらの法は私の『私』または『霊魂』(etaṁ mama、esohamasmi、eso me attā)であるとし、たとえば、「私の智、私の喜・・・」とするならば、愛、慢、邪見(taṇhā、māna、diṭṭhi)が生起する。これらの愛、慢、邪見とはすなわち、雑染法である。
もし、人が、智、喜などを、どれか一個の道果智であるとするならば、彼はすなわち、観禅の道を乖離している事になる。
というのも、彼は、この非真実道果の法に楽(+を覚え)、それらを、真実の道果であると考え、根本業処、すなわち、観禅を放棄するが故に。
(14-1につづく)
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(二)随観滅法(vayadhammānupassī)
=壊滅を見る(ただ壊滅をのみ観ずる)
'Avijjānirodhā vedanānirodhoti・・・paccayanirodhaṭṭhena
・・・passati’.
’Avijjanirodhā rūpanirodhohit・・・anuppādanirodho hoti.’
已に、智でもって「諸果(たとえば、色)の生起は諸因(たとえば、無明)の故である」と知見した禅修行者は、次に、智でもって、未来において阿羅漢道、及び般涅槃死亡を証悟した後、「諸因滅尽(たとえば、阿羅漢道の故に、無明は二度と生起することがない、すなわち、無生の滅(anuppāda nirodha)であり、諸果の滅尽(たとえば、色の滅後、二度と生起しない、すなわち、無生の滅)である」を簡単に観ずることができる。
ここにおいて、禅修行者は、何が有生の滅(uppāda nirodha)で、何が無生の滅(anuppāda nirodha)であるのかを、知っておかねばならない。
有生の滅(uppāda nirodha):因行法と果行法は、生起の後、即刻壊滅する行法である。無常に属する持続的生・滅は、有生の滅である。諸因が持続的に支援しさえすれば、果は不断に生・滅するという形式で存在する。ここで言う滅とは、有生の滅である。
(因もまた果行法である事に注意を払う事。それは、それを引き起す所の因を有している。)
壊滅の後、因が未だ断じ除かれていない事が原因で、それは再び生起して、壊滅する。これがすなわち、有生の滅であり、いまだ生起する事を保持している滅であり、それは刹那滅(khaṇika nirodha)と呼ばれるものである。
無生の滅(anuppāda nirodha):ソータパナ道、サターガミ道とアナーガミ道は、皆、それぞれ、相関する煩悩を断じ除く(または軽減する)ことができる。最上道(agga magga)と呼ばれる阿羅漢道は、徹底的に残りの煩悩も断じ除く事ができる。(阿羅漢道に至る)諸々の聖道は、徹底的に相関する煩悩を断じ除いた後、これらの煩悩は完全に、二度と、名色流の中において生起することがない。
それらは、已に完全に滅尽して、二度と生起しない。この種の滅は、無生の滅と言う。
諸因(たとえば、無明)が徹底的に滅尽して、二度と生起しない時(すなわち、無生の滅)、諸果(たとえば、色)は、未来の般涅槃死亡の後、二度と再び、生起の縁が存在しないという事から、滅尽するが、この種の滅もまた、無生の滅と言う。それらが滅尽するのは:無因であるため、無果が生起するからである。
禅修行者は、観智をば、未来において、阿羅漢道を証悟する時と、般涅槃死亡をする時に向かわせ、無生の滅を観照する様にする。唯一、観智でもって「諸因(無生)が滅尽したので、諸果(無生)が滅尽した」を、明確に知見した後に初めて、以下の文にある様な修習に取り組む。
色蘊の観照
1、無明が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。
2、愛が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。
3、取が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。
4、行が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。
5、業が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。
(これは無生の滅であり、未来において色が滅尽した後、二度と生起しない。)
(業生色の有生の滅も観ずる。)
6、心が滅尽するが故に、心生色が滅尽する。
(心生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)
7、時節が滅尽するが故に、時節生色が滅尽する。
(時節生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)
8、食が滅尽するが故に、食生色が滅尽する。
(食生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)
この観法では、禅修行者は二種類の滅尽を明確に知見しなければならない。すなわち、無生の滅と有生の滅である。《無碍解道》では、有生の滅は変易相(vipariṇāma lakkaṇaṁ)と呼ばれるが、これは行法の刹那滅である。一つひとつの刹那を五蘊に纏めた後(縁起第五法の説明の如く)、禅修行者はすべての、六所縁グループの善と不善速行心路過程を観照しなければならない。交代に内観と外観を修習する。ここにおいて眼識受蘊に対する観法を例に挙げて説明する。
眼識受蘊識の観照:
1、無明が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
2、愛が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
3、取が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
4、行が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
5、業が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
6、眼依処色が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
7、色所縁が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
8、眼触(=7)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
9、光(āloka)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
10、作意(=五門転向=11)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。
(無生滅法)
(眼識受蘊の滅尽の状態[有生滅法])
同様の方法によって、出来る限り、最も遠い過去世から最後の一個の未来世まで観照を進める。
(三)随観集滅法(samudayavayadhammānupasī)
=集滅を見る(udaya vayadassana)
Samudayadhammānupassī vā kāyasmiṁ、vayadhammānupassī
vā kāyasmiṁ・・・karoti.
上に述べたパーリ経典と註釈の指示によると、生滅随観智詳細法を修習する禅修行者は、観智でもって「因あ生起するが故に、果が生起する;因が滅尽するが故に、果が滅尽する」を識別した後、彼は必ず、因果を不断に連貫させてながら、観照しなければならない。
この観法に対して、《根本50經篇註》では、以下の様に言う:
Sappaccayanāmarūpavasena tilakkhaṇaṁ ・・・vicarati.
この註釈の指示によると、禅修行者は必ず、順序良く繰り返し因果の二者の三相を観照しなければならない。
こうしたことから、ここにおいて、因果の無常相を観照する例を挙げた。
それらの苦相と無我相の観法もまた、同様である事を理解しなければならない。
生・滅を見る:色蘊
1、無明が生起するが故に、業生色が生起する;
無明が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;
無明(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。
2、愛が生起するが故に、業生色が生起する;
愛が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;
愛(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。
3、取が生起するが故に、業生色が生起する;
取が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;
取(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。
4、行が生起するが故に、業生色が生起する;
行が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;
行(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。
5、業が生起するが故に、業生色が生起する;
業が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;
業(=思、生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。
6、心が生起するが故に、心生色が生起する;
心が滅尽するが故に、心生色が滅尽する;
心(生・滅)無常、心生色(生・滅)無常。
7、時節が生起するが故に、時節生色が生起する;
時節が滅尽するが故に、時節色生が滅尽する;
時節(生・滅)無常、時節生色(生・滅)無常。
8、食が生起するが故に、食生色が生起する;
食が滅尽するが故に、食生色が滅尽する;
食(生・滅)無常、食生色(生・滅)無常。
眼識受蘊を観ずる
1、無明が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
無明が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
無明(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
2、愛が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
愛が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
愛(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
3、取が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
取が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
取(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
4、行が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
行が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
行(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
5、業が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
業が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
業(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
6、眼所依処が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
眼所依処が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
眼所依処(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
7、色所縁が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
色所縁が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
色所縁(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
8、眼触が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
眼触が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
眼触(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
9、光が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
光が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
光(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
10、作意(=五門転向=11)が生起するが故に、(眼識)受が生起する;
作意が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;
作意(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。
説明
縁起第五法に、已に熟練した禅修行者は、上に述べた説明に従って、この段階での修習を実践することができる。
生滅随観智の詳細法に関して、一つひとつの心識刹那の五蘊を観照しなければならない。
ここにおいて、禅修行者は、一つ前の前世の因と今生の果の因果関係を識別した後、この法を修習することができる;。
彼はまた、二番目の前世の因と、一番目の前世の果の因果関係を識別した後、この法を修習することができる;
また、今世の因と来世の果の因果関係を識別した後、この法を修習する事も出来る。
禅修行者は、更に遠い過去の諸々の世を識別する事ができるし、また、未来世の諸々の世の因果関係を識別することもできる。その後にこの法の修習をする。
希望するならば、禅修行者は、無明などを二グループに分けて観の修習をすることができる。すなわち、無明、愛と取を煩悩輪転に、行と業を業輪転に分けるのである。
たとえば、諸因(+によって)一番目の前世に生まれたならば、禅修行者は、先に、一番目の前世の有分心透明界(意門)を識別し、次に、有分心の間に生起する所の諸因を観照し、それらの生・滅(=無常)を知見する。
更に遠い過去、及び未来世の観法もまた同様である事を理解する事。
縁起の段階で説明した様に、無明、愛と取は多く、以下の意門心路過程に出現する:
意門転向=12
速行心=20
有因彼所縁=34
無因彼所縁=12
喜は相応しても、しなくてもよい。彼所縁もまた、生起してもよく、生起しなくてもよい。
もし、彼所縁が生起するならば、愛、取の多くは、貪見グループ速行である。観智でもって、これらの心路過程名法の生滅無常性を観照して、いまここの刹那に至った後、順序良く繰り返しそれらの三相を観照する。
行と業は、多く以下の心路過程に出現する:
意門転向=12
速行=34
有因彼所縁=34
無因彼所縁=12
もし、この意門心路過程の速行が喜俱智相応大善である時、喜と智の二者は共に相応し、合計34の名法になる。
もし、捨俱智相応であれば、ただ智相応で喜が無く、合計33の名法となる。
彼所縁は生起することもあれば、しないこともある。
もし、彼所縁が生起するならば、状況に基づいて、生起するのは、有因または無因彼所縁である。
一つひとつの心識刹那の行業名法の生・滅を観じて、いまここの刹那に至ならば、順序良く繰り返しそれらの三相を観ずる。
行と業有
業力は、観禅の目標ではない。観の修習の時、善行グループの三相を観照するのを主とする。
故に、禅修行者は、観禅の目標である行と業有について、理解が必要である。ここにおいて、布施の説明をして例に取る。
1、善業(布施)を造(ナ)す前に生起した所の前思(pubbe cetanā)は行である;
善業を造(ナ)した時(布施した時)に生起した立思(muñca cetanā)は業有である。
2、業を造(ナ)した時に生起した七個の速行の中において、第一から第六の速行相応の思は行であり、第七速行相応の思は業有である。
3、業を造(ナ)した時に生起した所の速行心識刹那の中において、思は業有、その他の相応法は行である。
上に述べた定義に基づいて、もし人が、観照することができるのであれば、上に述べた所の、已に生じた、またはまさに生じ様としている意門善速行心路過程の中の、一つひとつの心識刹那のすべての名法を、いまここの刹那に至るまで(+観照するならば)すなわち、行と業有の二者は已に観照されたのだと言える。
一切の観照
一つひとつの心識刹那を五蘊に纏める。たとえば、結生五蘊、有分五蘊、死亡五蘊、意門転向五蘊、眼識五蘊などである。その後に、上に述べた方法で、内と外を観ずる。
禅修行者は(+以下の様に観ずる):
1、前世と今世の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。
2、諸々の過去世の間の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。
3、今世と来世の因果関係を連関貫させた後、それらに対して、観の修習をする。
4、諸々の未来世の間の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。
(13-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《生滅随観智》(Upayabyayañāṇa)
名色法と五蘊法の二者
生滅随観智の目標は蘊、処、界、諦、縁起支である。
縁起支においては、ただ、無明から有(bhava)までが、生滅随観智の目標の内である、とされる。(《無碍解道》)。
生滅随観智を証得したいと思う人は、先に(下記の如くに)徹底的に、現在の(名色)の三相、ある時は無常相を観じ、ある時は苦相を観じ、ある時は無我相を観じなければならない。
1、内外を交代しながら、ただ色のみを観ずる;
2、内外を交代しながら、ただ名のみを観ずる;
3、内外を交代しながら、同時に名色の二者を観ずる;
ただ色法だけを観ずる、または一つひとつの所縁グループ(六グループの修習を完成しておく事)の名法を観ずる時、いまここの刹那(khaṇa paccuppanna)を、観ずる様にしなければならない。
同様に、五蘊法に基づいて、徹底的に観の修習を実践し、ある時は無常相を観じ;ある時は苦相を観じ;ある時は無我相を観ずる。
(以下の)いまここの刹那を観照できるまで修習する:
1、色のみ。
2、受のみ。
3、想のみ。
4、行のみ。
5、識のみ。
ある時は、内観し、ある時は、外観する。
同様に、諸々の縁起支、すなわち、無明、行、識、名色、六処、触、受、取、有(業有と生有)の生・滅を目標に取り、順序良く繰り返しそれらの三相を観照する。
ここでは、ただ、それらの三相の生・滅を目標に取るのみであり、それらの因果関係を、連貫させる事はない。
《過去、未来、現在、内、外》
もし、禅修行者が徹底的に、現在の行法を観照して、いまここの刹那に到達し、かつ、その智が、非常に明晰であるならば、彼は、名色法と五蘊法を用いて、(己自身が見える事のできる)最も遠い過去世から今生まで、次に、最後の一個の未来世まで、内外、交代して、順序良く、以下の三相を観照する。
1、色のみ。
2、名のみ。
3、名色の二者。
その後に、
1、色のみ。
2、受のみ。
3、想のみ。
4、行のみ。
5、識のみ。
を観照する。
無常を多数回観照し、苦を多数回観照し、無我を多数回観照する事。
この様に多数回観照したならば、禅修行者は、相当長い時間をかけて、ただ最も己自身に適合する所の相を、観ずるのがよい。
もし、禅修行者が、已の(+修習に)満足を覚えたならば、(+その段階において)生・滅が、極めて迅速に、その智に、顕現する。
そして彼は、已に、いまここの刹那に到達しているために、彼は、生滅随観智の詳細法に転じて、修習することができる。
《生滅随観智の詳細修習法》
(一)随観集法(samudayadhammānupassī)
=見生起(udayadassana)=生起だけを観ずる
《大念処經は》以下の様にに教える。一つひとつの念処に対して、以下の三法を運用して、修習する事:
1、随観集法(samudayadhammānupassī)
2、随観滅法(vayadhammānupassī)
3、随観集滅法(samudayavayadhammānupassī)
智慧第一のシャーリプトラ尊者は《無碍解道》の中において、それを解釈するに、「無明の修、色の集徹底的」とした。
禅修行者は、これらの指示に従って、生滅随観智の詳細法を修習しなければならない。
ここにおいて、結生時の色蘊と四つの名蘊を例に説明する。已に縁起第五法の修習を終えている禅修行者は、一つひとつの心識刹那の五蘊(たとえば、名業処の表の如く)を観照することができる。
縁起第五法の様に、ここでは、智でもって因果関係を知見しなければならない。
色蘊:
1、無明(20)が生起するが故に、(業生)色が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、(業生)色が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、(業生)色が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、(業生)色が生起する。
5、業(34)が生起するが故に、(業生)色が生起する。
(業生色の生起)
6、心が生起するが故に、心生色が生起する。(心生色の生起)。
7、時節が生起するが故に、時節生色が生起する。(時節生色の生起)。
8、食が生起するが故に、食生色が生起する。(食生色の生起)。
註:結生の時には、業生色しか存在しない。特に、結生の生起刹那の、その時には、心生色、時節生色と食生色はいまだ存在していない。ここでは、比較的後の心識刹那の色蘊を列記した。
結生受蘊:
1、無明(20)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
5、業(業力、34)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
6、依処(心所依処)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
7、目標(結生心の目標)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
8、触(=34-受=33)が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
(結生受蘊の生起)
結生想蘊:
1、無明(20)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
5、業(業力、34)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
6、依処(心所依処)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
7、目標(結生心の目標)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
8、触(=34-受=33)が生起するが故に、結生想蘊が生起する。
(結生想蘊の生起)
結生行蘊(=思、第一番目の解説方法)
1、無明(20)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
5、業(業力、34)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
6、依処(心所依処)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
7、目標(結生心の目標)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
8、触(=34-思=33)が生起するが故に、結生行蘊が生起する。
(行の生起)
結生行蘊(34-受ー想ー識=31、二番目の説明方法):
1、無明(20)が生起するが故に、結生行(ママ、以下同様)が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、結生行が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、結生行が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、結生行が生起する。
5、業(業力、34)が生起するが故に、結生行が生起する。
6、依処(心所依処)が生起するが故に、結生行が生起する。
7、目標(結生心の目標)が生起するが故に、結生行が生起する。
8、その他の三名蘊が生起するが故に、結生行が生起する。
(行の生起)
その他の三名蘊とは受蘊、想蘊と識蘊である。34名法の中において、この三蘊を除いて、残りの31心所は果であり、残りの三名蘊は因という事になる。
結生識蘊:
1、無明(20)が生起するが故に、結生識が生起する。
2、愛(20)が生起するが故に、結生識が生起する。
3、取(20)が生起するが故に、結生識が生起する。
4、行(34)が生起するが故に、結生識が生起する。
5、業(34)が生起するが故に、結生識が生起する。
6、名色が生起するが故に、結生受蘊が生起する。
(結生識の生起)
名=心所依処(30色)+所縁色(所縁色が色法である場合)。
この観法に基づいて、一つひとつの心識刹那の五蘊を観照する。たとえば、有分五蘊、死亡五蘊、五門転向五蘊、眼識五蘊などなど。
縁起第五法の因果関係の識別に熟練している禅修行者には、この観法は、通常、難しいものではない。
註:ここにおいて、無明、愛、取を(20)及び行為(34)としたのは、一つの例に過ぎない。己自身の名色流の中において、已に生じた、まさに生じている、将に生じんとしているものを観じる様にすればよい。
心と心所の数量は、変化する時もあり、それはまた、善行であったり不善行であったりする。出来る限り、最も遠い過去世から(+始めて)最後の一個の未来世まで、多数回、観照の修習を実践する事。
(13-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《七非色観法》(Arūpa Sattaka vipassanā)
七種類の非色観法がある。
すなわち、聚によって、双によって、刹那によって、次第によって、除見によって、去慢によって、破欲によって(kalāpa、yamaka、khaṇika、paṭipaṭi、diṭṭhi uggahāṭna、māna samugghāṭana、nikanti pariyādā na)。
(一)聚観法
七色観法の中の、色法を無常(または苦、または無我)として「修観の心」を観照し、次に「後生修観の心」を、無常(または苦、または無我)として観ずる。この観の修習法は聚観法と言う。
七色観法の中の色法を、一体のグループに纏めて、それらを「取捨色」などとして分ける事なく、それら全体を無常として観ずる。
上に述べた色法を無常として観ずる修観の心に関して、後生修観の心でもってそれの無常を観ずる;
次に、後生修観の心でもって、それを苦を観ずる;
及び、後生修観の心でもって、それの無我を観ずる。
また、七色観法の色法の全体を苦として、この、色を苦として観ずる修観の心を、後生修観の心でもって、それの無常を観ずる;
次にそれを苦として観じ;
及びそれを無我として観ずる。
また、七色観法の中の色法の全体を無我とし、この、色を無我として観ずる修観の心を、後生修観の心でもって、それの無常を観じ;次にそれを苦として観じ;及びそれを我として観ずる。
これがすなわち、聚観法であり、すなわち、七色観法の中の色法を、一体のグループにして、これを観ずる観法である。
前生修観の心と後生修観の心
《アビダンマ論註》の中における、智分別(Ñāṇa Vibhaṅga)の註釈では、凡夫と学者の修観の心は、大善速行意門心路過程であると、言及している。
’Sekhā vā puthujjanā vā kusalaṃ aniccato・・・’
「有学聖者と凡夫は、善法を無常、苦、無我として観照する。善速行(vipassanā kusala javana)の滅尽を観じた後、欲界果報彼所縁はその後に生起する。
’Taṁ kusalassa javanassa ārammaṇabhūtaṁ
vipassitakusalaṁ ・・・’
彼所縁の欲界果報心として生起し、善速行の目標を観ずる善法を目標として取る。(Abhi-com)。
上に述べた経典によると、彼所縁は初観速行(taruṇa vipassanā javana、すなわち、未成熟の観速行)の後において、生起する事が出来る為、注意する事。
Tilakkhṇārammaṇikavipassanāya tadārammaṇaṁ
na labbhati. Vuṭṭhānagāminiyā ・・・.
上に述べた経典のよると、彼所縁は強力な観速行(balava vipassanā javana)の後に生起することができない、という事に注意する事。
表12-1 : 観速行意門心路過程(略)
一性理(ekatta)に基づいて、観速行意門心路過程全体は、以下の様に呼ばれる:
1、無常を観ずる心:苦を観ずる心:無我を観ずる心。
2、第一心、第二心などなど。
3、前生心と後生心。
その理由は、一番目の観速行意門心路過程の中で、その目標は七種類の色観法の中の色法であるからである;
二番目の観速行意門心路過程の中で、その目標は、第一番目の観速行意門心路過程、すなわち、名法である。
同一の一個の心路過程の中で、一心が色を目標に取り、もう一つ別の一心が名を目標に取ることは不可能である。
故に、色を目標に取るのは、一個の心路過程であり、名を目標に取るのは、また別の一個の心路過程である。
一性理に基づけば、いわゆる前生心または後生心とは、心路過程全体の事である旨、理解する必要がある。
彼所縁はある場合もあり、ない場合もあり得る。
もし、彼所縁が生起したならば、状況に応じて、それは無因でったり、有因彼所縁であったりする。
(二)双観法
取捨色を無常として観照した後、次に後生心でもって、修観の心を無常として観照し、次に苦として観じ、及び無我として観ずる。(取捨色を苦と無我とする、修観の心の、その観法は上と同様である)。
年齢の増長に応じて消滅する色、食所成色、時節所成色、業生色、心等起色と法性色の観法もまた同じである事に注意を払う事。
聚観法において、七色観法の中のすべての色法を一体として、別けて観照されるものはない、とする;
双観法において、それらは個別の観法の色として分類する。
一つひとつの観法を徹底的に観ずるべきである。
特に年齢の増長によって消滅する色に関しては:
生命の各々の段階において、それらの色法を観照し、次に、修観の心を観照する。たとえば、初齢の色法を観照し、その後にその修観の心を観照する:次に、中齢の色法を観照し、その後に、その修観の心を観照するなど等である。その他の色法の観法もまた、同様である事を理解する事。
(三)刹那観法
取捨色を無常として観じ、その後に:
1、第二心(第二観速行心路過程)でもって、一個目の修観の心を無常として観照する。
2、その後に、第三心でもって、第二心を無常として観ずる。
3、その後に、第四心でもって、第三心を無常として観ずる。
4、その後に、第五心でもって第四心を無常として観ずる。
(順序良く繰り返しそれらを苦として、無我として観ずる)
取捨色を苦、無我として観ずる観法もまた同様である事を理解する。
その他の色(たとえば、年齢の増長によって消滅する色)の観法もまた同様である。
七色観法に基づいて、一つひとつの種類毎の観法の中の色法を観照する。一つひとつの種類毎の観速行心路過程は、皆、連続して四回、後生心(後生心路過程)によって、前生心(前生心路過程)を観ずる。
(四)次第観法
取捨色を無常として観照した後、次に、連続して、以下の後生心でもって、前生心を無常として観ずる:
1、第二心でもって、第一心を観ずる;
2、第三心でもって、第二心を観ずる;
3、第四心でもって、第三心を観ずる;
4、第五心でもって、第四心を観ずる;
5、第六心でもって、第五心を観ずる;
6、第七心でもって、第六心を観ずる;
7、第八心でもって、第七心を観ずる;
8、第九心でもって、第八心を観ずる;
9、第10心でもって、第九心を観ずる;
10、第11心でもって、第10心を観ずる。
それらの苦と無我も観ずる事。(取捨色を苦とし、無我として観ずる観法もまた斯くの如くであることを理解する;その他の色の無常、または苦、または無我を観ずる観法もまた同様である。)
(五)除見観法
徹底的に、行法を無我として観ずるのは、すなわち、除見である。
無常随観智と苦随観智の、親依止縁力の支援の下、無我随観智は、見(我見)を断じ除く事ができる。
(六)去慢観法
徹底的に、行法の無常を観ずるのは、すなわち、去慢である。苦随観智と無我随観智の親依止縁力の支援の下、無常随観智は我慢(=傲慢、高慢)を断じ除く事ができる。
(七)破欲観法
徹底的に、行法の苦を観ずるのは、すなわち、微細愛(taṇhā)に属する欲(nikanti)を断じ除く事ができる。
無常随観智と無我随観智の親依止縁力の支援の下、苦随観智は愛を断じ除く事ができ、それ故に、愛は生起する事ができない。
注意
もし、ただ行法を無我としてのみ観ずるならば、無我随観智は、見を断じ除く事はできない;
もし、ただ行法を苦としてのみ観ずるならば、苦随観智は、愛を断じ除く事はできない;
もし、ただ行法を無常としてのみ観ずるならば、無常随観智は、慢を断じ除く事はできない;
どの様な随観智も、必ずその他の二者の随観智の支援を受けて初めて、対応する所の煩悩を断じ除く事ができる。
(《清浄道論》)。
上に述べた指示に従えば、名色法、五蘊法と縁起法において、徹底的に、三時の内外の行法の三相を観照した後、次には、少なくとも一回の座禅・瞑想の時間において、これらの行法を以下の様に観ずる:
1、無常に過ぎない。
2、苦に過ぎない。
3、無我に過ぎない。
三時の内外の行法の観照に関して、已に熟練に到達した無我随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、我想が生じるものであろうか?
同様に、行法の観照に関して、已に熟練に到達した無常随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、常想が生じるものであろうか?
「我、我」に執着する所の慢見は、如何にして生じるのであろうか?
慢見は唯一、常想を持つ者に生起する。
同様に、行法の観照に関して、已に熟練に到達した苦随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、楽想が生じるものであろうか?
愛欲(taṇhā nikanti)は、唯一、行法に対して楽想を持つ心流の中にのみ、生起する。
こうしたことから、苦随観智が已に熟練に到達した禅修行者には、愛欲は生起することができないのである。
熟練への到達
Ettāvatā panassa rūpakammaṭṭhānampi
arūpakammaṭṭhānampi paguṇaṁ hoti.
ーー「もし、熟練して、七色観法と七非色観法によって、内と外とを観ずる事ができるならば、禅修行者は已に、色業処と名業処において熟練しているのだと言える。」
もし、内外に、過去、現在と未来を観照できるならば、それは尚良い。
(13-9につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
「他人の目の中のゴミを問題にするより、あなた自身の目の中の丸太を、取り除く事に尽力しなさい」
は、キリストの有名な教えです。
己自身には、大いなる偏見と先入主がある。
そんなあなたに、他人を批判する資格などない、という教えです。
でも私、この教え、なんだか変だなぁ、と長い間、思っていました。
勿論、私は視野が狭く、ものごとを正しくとらえていない場合が多い、という事は認めますが、たとえば、力の強い者が弱い者を虐めたなら、前者を批判するのは当たり前ではないでしょうか?(弱い他人を虐めるのは、虐める側の人間に、解決不能の苦悩があるが故、それに配慮する事、というのも一面の真理ですが、今は横に置く。)
それとも、目に丸太を持つ私には、他者を批判する資格は、全くないのでしょうか?
ところが、先日、丸太には、続きがあるのだと誰かが、教えてくれました。
それは
「あなたの丸太が取れたなら、他人の目の中のゴミを取れ」です。
まず己から正す(凡夫が、完璧にそうするのは、少々、難しいかもしれないですが)。
そして、自分に恥じない範囲で、不正には、声を挙げてもよい(怒りではなく慈でもって。)
日本に、<お互いに決して批判をし合わない>キリスト教団がある、と耳にした事があり、それがずっと心に引っかかっていました。
宗教が教条になると恐ろしい・・・ここにも、その一例がありました。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>