Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~8>「ヤシの殻」

#8-150602

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 21にこんな事が書いてあります。

 

《欲望とは汚染である。がしかし、“道”を修するには、まずは欲が必要だ。あなたが市場に行って椰子を買って、それを提げて家に戻ろうとしている時、ある人が「あなたはどうしてこれらの椰子を買ったのですか?」と聞いたとしよう。

“買ってきて、これから食べるのですよ”

“あなたは殻まで食べるの?”

“まさか。食べやしないさ”

“私は信じないわ”彼女はきっぱりと言う。“あなたが殻を食べないと言うなら、なぜ殻も一緒に買って来たの?”

で、あなたはどのように返事をしますか?

この問題に、あなたは答えられますか?

私たちは欲望に支えられて、修行を始めます。もし我々に欲望がないなら、修行に向かう事もありません。あなたはこの道理をご存知ですか?このように考察すると、智慧が生まれます。まるで上に述べた、買って来た椰子の殻のように、あなたは殻まで食べてしまう気でしょうか?もちろんNO!ですね。ならばなぜ、椰子の殻まで買って来たのでしょうか?それは、椰子の殻が椰子のジュースを包み込んでいるからで、ジュースを飲んでしまった後に、殻を捨ててしまえば、何ら問題はないのです。

我々の修行もこのようなもので、椰子のジュースを飲むには、椰子の殻が必要なように、修行を始めたばかりの時は、欲望を保ちなさい。というのも、その時はまだそれを“捨て去る”時期ではないからである。修行もまた同じ事で、誰かが我々をみて、我々が殻まで食べようとしていると言い張っても、それはそう言い張る人の問題であって、我々とは関係がない。自分が何をしているのか、自分自身が分かっていれば、それでよい》(「森林里的一棵樹」より) 

 

私が独学で禅宗を学んでいた時、こういう文章に会いました「黙ってただ座れ」「悟ろうと思うな」。

ここで私は混乱してしまいました。座禅するのは悟りたいが為なのに、悟ろうと思わずにただ座れって?それじゃ時間がもったいない(苦笑)。

今は分かります。日常生活の中で、思う事あって、世界の実存や、自己のありようを探求しようとする時、明らかに悟りを求めている訳で、この心の志向が非難される事はない。

けれども、一旦座蒲の上に座ったなら、「悟りたい」などという色気・作為は、忘れなければならない。悟りたい、悟りたい、と思いながら座っていると、マーラに襲われて禅病になる事、間違いなし!私、経験者が保証します(笑)。

                      (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)