Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~7>「コブラ」

#7-150601

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 20にこんな事が書いてあります。

 

《心理的な活動は、人を死に至らしめるコブラのようだ。もし我々がコブラにちょっかいを出さないでいたら、コブラコブラの好きな道を行くだろう。コブラが強力な毒を持っているとしても、我々はコブラの影響を受ける事はない。我々がコブラに近づかないか、又は捕まえようとしなければ、コブラが我々を咬む事はない。コブラコブラの本性に従って行動するだけであって、ものごととは、まさにこのようなものである!もしあなたが十分に聡明であるならば、コブラをからかったりはしない。同様にして、世の中の<よくないもの>と<よいもの>もまた、その自然のままに放っておきなさい――その本性に従ってあるがままに――好きとか嫌いとかに執着してはいけない、あなたがコブラにちょっかいを出さないのと同じように。

一人の聡明な人間は、このような態度でもって、自己の心の中に生起する諸々の情緒に対処する。善き感情が生起した時、それを自ずから善としてあらしめつつ、同時にその本然を知っておればよい。同様に、我々は、悪は自ずから悪としてあらしめ、あるがままにおいておけばよい。執着してはいけない。我々は何ものをも欲しないのであるから!我々は悪もいらないし、善もいらない。我々は重い荷物も軽い荷物もいらないし、楽しみも苦痛も求めない。我々の欲求が止まった時、平静は確固たるものとして(心の中に)確立する》。(「森林里的一棵樹」より)

 

昨日(5月31日)アップした<遊び好きの子供>の中で、最後の行に「正見」(正しい見解)という言葉が出てきます。これもなかなか難しい言葉ですね。

私は長いこと「正見」を、学校で学ぶ、恣意的でない、科学的な態度で理解する所の、理科や社会の事だと思っていました。

あるとき「正見」とは、四聖諦を理解して受け入れる事だと知って仰天しました。ゴータマ仏陀の提唱する「正見」をジャッジするのが、同じくゴータマ仏陀が提唱する「四聖諦」だというのは、反復同義というか、身内の依怙贔屓のような、無限ループのような・・・。

現代は素粒子物理学や、心理学が発達して、仏陀のダンマは非常に科学的(彼が述べた教えは比喩が多く、科学の形を取らないけれども)である事が証明されつつありますが、仏教に宗派論争が絶えないのは、こういった反復同義、ブラックボックス的な要素がある為、第三者的な、外部から計る客観的な物差しが機能しにくい事があるのかもしれません(結局、仏陀のダンマとは、リンゴの味は食べてみないとわからないのと同じ、自分で体験してみないとわからないのでしょうが、一たび判断を誤ると邪教になるので、学んでいて時々、薄氷を踏むような気持がする事があります)。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)