南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー問答集~#028>問答(四)問4-3(後半)

#028-150717

これは菩薩の本来の性質なのです。これらのハラミツを実践するのは、一切知智19(sabbaññuta-ñāṇa)を証悟するためです。しかし、彼のハラミツが成熟する前、燃灯仏の時代から悉達多太子の間の期間、あるときは過去の不善業の為に、我々の菩薩も畜生道に生まれました。しかし、比丘として生まれた世代と畜生として生まれた世代との間隔は非常に離れています。これが第一番目の人。

(二)何人かの上級の阿羅漢弟子。例えば、シャーリプトラ尊者とモッガラーナ尊者。彼らもまた最勝見仏(Anomadassī Buddha)から授記を得ています。しかし、その尊仏から釈迦牟尼仏までのこの期間、彼らの過去の不善業のために、彼らもまた、ある時には、我々の菩薩と一緒に畜生道に生まれています。 釈迦牟尼仏の時代、彼らは四無碍解智を具足する阿羅漢になりました。この種の阿羅漢は、過去仏の時代に止観に精通して、行捨智に到達している必要があります。これは自然の法則です。このように、彼らは過去の非常に多くの生において、止観を修行しましたが、それでも、ある時には、彼らもまた、我々の菩薩と共に、畜生道に生まれたのです。これが第二番目の人。

(三)普通の弟子は、もし彼らが徹底的に止観を修行して、縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)または生滅随観智(udayabbaya-ñāṇa)または行捨智に到達したならば、死後彼らは四悪道(apāya)に生まれる事はない。たとえ、今生において、いかなる道果をも証悟する事ができなくても、彼らは天界に生まれ変わる可能性があります、たとえば沙門天子20(Samaṇa-devaputta)のように。

沙門天子は、止観の修行に精進した比丘です。彼は修行中に死亡し、その続きとして、自然に天界に生まれ変わりました。彼は自分が死んだ事を知らず、天界の宮殿に生まれた時、まだ修行を続けていました。宮殿の天女が彼を見たとき、彼女達は、彼が生前、疑いなく絶対に比丘であった事を理解しました。その為、彼女達は、彼の前に鏡を置き、わざと騒いで彼が定から出るようにしました。彼が目を開けて鏡の中の自分の映像を見たとき、非常に失望しました。というのも、彼は天神になりたくなく、ただただ、涅槃を証悟したかったからです。

故に、彼はすぐに人間社会に降りてきて仏陀の説法を聞きました。仏陀は四聖諦に関する法を教えました。聞き終わると、彼は須陀洹道智(sotāpatti-maggañāṇa)と須陀洹果智(sotāpatti- phalañāṇa)を証悟しました。註釈ではこの事を「・・・laddhassāso laddhapatiṭṭho niyatagatiko cūḷasotāpanno nāma hoti」――彼は解脱を得た、彼は安穏処に到達した、彼には絶対的な素晴らしい帰依処がある。故に彼を小須陀洹21(cūḷasotāpanna)と呼ぶ、と解説しています。

《耳随順経Sotānugata Sutta》の中で、仏陀は下記の四種類の状況を開示しています。

  1. 天界に生まれ変わって後、もし仏法を思惟できるならば、彼の観智は仏法をはっきりと透視する事ができ、彼は非常に速やかに涅槃を証悟する事ができる。
  2. たとえ観智をもって仏法を思惟する事を通して涅槃を証悟する事ができなくても、神通があって天界に弘法に来た比丘の説法を聞いた時、彼は涅槃を証悟する事ができる。
  3. もし比丘の説法を聞く機会がなくても、説法天神(Dhamma-kathika-deva)の語る仏法を聞く機会があれば、その時仏法を聞くことによって、彼は涅槃を証悟する事ができる。尚、説法天神とは常童形梵天(Sanaṅkumāra Brahmā)などの事をいう。
  4. もし、説法天神による仏法の説明を聞くことができない時でも、前世で一緒にこの期間の教法を共に学んだ修行仲間の道友に会う可能性があります。これらの修行仲間は、彼に注意を促すでしょう。例えば「おお、友よ。我々が前世において人間界で比丘だった時になした、あの仏法の修行を思い出してほしい」と。その時、彼はその時修行していた仏法を思い出し、もし観禅(vipassanā)の修行を試してみるなら、彼は迅速に涅槃を証悟するでしょう。

これらは、止観修行の四つの結果です。故に、普通の弟子について言えば、今世で道果を証悟できなくても、彼は未来の世において、必ず涅槃を証悟します。

死の間際、修行者は強くて力のある観禅(vipassanā)または止禅が(でき)ないかもしれません。しかし、強くて力のある止観善業によって、善相が彼の意門に出現します。この善相は臨死速行心の対象になります。故に、この種の善業によって、彼は必然的に善処に生まれ、その一生の間に、彼は涅槃を証悟する事ができます。

このように、もし修行者が臨死速行心の刹那まで観禅(vipassanā)を修行する事ができたなら、彼は《耳随順経》の中で言われている第一番目の人です。もし修行者が臨死速行心の刹那まで観禅(vipassanā)を修行する事ができないのならば、まさに上で解説したように、彼は《耳随順経》の中で言われている第二番目、第三番目または第四番目の人になる事はできます。(完)

#029-150717 問4-4、 #030-150717 問4-5 

の 2編は、読者の方より漏れのご指摘があり、

10月16日に公開してあります。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新は休みます)。