Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~10>言葉の定義

今日、私はちょっと機嫌がいい。

パオセヤドーの問答集を翻訳していて、長年の疑問、刹那定(カニカ・サマーディ)とは何か?が、解けたから。というか、刹那定と観禅(vipassanā)の関係が明白になったから。(同日アップのブログ<パオ・セヤドー問答集 #031>ご参照の事)。

まぁ、仏教や、修行そのものに興味のない人には、何の事やら・・・ではありますが。

簡単に言えば、身体(と物質)と心は刹那に生滅している訳です(素粒子の本質)。そして、それを観察するのに、刹那性を持つ集中力が必要なのですが、その集中力とは、どのレベル、どういう内実を持っているべきか、という話。パオ森林寺院(パオ・メソッド)では、止禅が出来ない者は、観禅(vipassanā)のための刹那定も出来ない、という立場(これに反対する立場は、止禅というのは瞑想の対象を一つに絞ってずっと見続けているので、そこで心の進歩、成長が止まってしまう、止禅の修行をしないでも、刹那生滅を観察の対象とする修行ー観禅は、初心者でも、すぐにでもできる、という立場)。

私はこれまで、観禅(vipassanā)とは何か?刹那定とは何か?定義を明白にすべきだと言い続けてきましたが、巷ではどうやら、定義に煩いおばぁさん、知ったかぶりのおばぁさんと思われた様子(苦笑)。

勿論、定義の為の定義、定義にかこつけた議論の為の議論は必要ないけれど、事の真相を究明するには、お互い、使っている言葉の概念を揃える、という意味で定義は必要なんですよ(定義を確認しないまま、会話がすれ違うほどむなしい事はない)。

本日、パオ・セヤドー(すなわち清浄道論)の刹那定の定義を翻訳・ブログにアップできて、長年のつかえが下り、気持ちがすっきりしました。