<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
観智は、その浅いレベルから深いレベルに応じて、16種類を数えることができ、それを ”16観智” と呼ぶ。
最初のものから順に、名色分別智、縁摂受智、思惟智、生滅随観智といい、最後に道智、果智と省察智となるが、これは、禅の修行者が観智を育成して、凡夫から聖者になるために必ず通らなければならない、16の階段である。
仏陀は《大念処経》の中で、何度も重複して強調している:
”このように、或いは内身随観身において住し、或いは外身随観身において住する・・・”
における観の修習の指導・教導は、この16観智への、精緻・精鋭なる説明なのである。
この点に関して、緬甸の禅修大師パオ・セヤドー(Pa-Auk Tawya Sayadaw)は、本書の中において、詳細な解説を行っている。
上座部仏教によると、義註(aṭṭhakathā)は、古代の上座長老方のパーリ三蔵への権威的解説であり、禅の修習の実践的理論と指導における、南伝上座部仏教の伝統的観点を代表するものである。
もし人が、義註の解釈に依って、正確に《大念処経》を理解しないならば、四念処と止・観禅修の順序・次第を完全に理解していないが故に、一部分の文章に囚われて、字面の上から《大念処経》の経文を理解し、その為に己自身で禅法を発明してしまう(+事がある);
ある者に至っては、(+経文の)一段落または幾つかの段落でもって、己自身の理解と経験を絡ませて、新しい禅法を創造する;
更には、個人の経験に基づいて、いくつかの経文を見つけ出して、勝手に新しい禅法を作りだしてしまう。
この種の禅法が、全くもって経文に依拠していないのであれば、それはそれで結構であるが、しかし、もし、これらの禅法が、仏陀の教えた ”四念処は唯一の道である” (+と同じであると主張する)ならば、四念処と戒・定・慧、止・観は、それぞれ互いに無関係な禅法であると誤解する可能性を内包しており、仏陀の教法を支離滅裂なものにしてしまう事も、あり得るのである。
まさに時下、”四念処” を指導する、ある種の ”大師” 方が、禅定を軽視し、止観に反対している様に。
仏陀の教法は完全なものであり、一部分に偏って全体を語る事はできないし、任意に分割するなどは、もっての外なのである。
故に、パオ・セヤドーは、パーリ三蔵全体とその義註及び複注における、相互の関連性を引用しつつ、《涅槃証悟の唯一の道》(The Only Way for the Realization of Nibbāna)という、当該の著書を完成させたのである。
当該の著書の<序論>において、セヤドーは、四念処の修法と、仏陀の全体の教法の関連性を研究し、その正文において、入出息念によってジャーナを育成し、その上で、その定力をば vipassanāジャーナ(vipassanāpādakajjhāna)の基礎となし、16観智をシステムに従って育成し、最後に一切の煩悩を断じ尽くす所の、実修の方法を解説したのである。
(2-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<パオ・セヤドー著『涅槃証悟の唯一の道』 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
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