Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#065>問答(七)問7-5

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#065-150814

7-5 もし人が邪悪な動機を持って(修行した後)、ジャーナに達する事が出来たならば、そのジャーナはその人にとってどのような利益がありますか?たとえば、サンガのお金を自分のものにして使い、かつそれを間違いだと認めないというような場合。このような人が第四禅に到達した時、彼の心または見解(考え)は変わりますか?

7-5 この事は、居士と比丘では状況が異なるので、分けて考える必要があります。比丘について言えば、戒律(āpatti)に違反しているならば、ジャーナを証するのに障礙になります。たとえば、サンガのお金を自分個人のお金として使ってしまったならば、彼は彼の過ち(āpatti)を正さない限り、ジャーナに非常に入りにくくなります。この事の意味は、彼は自分が使い込んだお金の全額に相当する日用品をもってサンガに弁償しなければなりません。そして、その後に、サンガ又は誰か一人の比丘に戒を犯した罪(āpattidesanā)を懺悔しなければなりません。間違いを正した後、努力して止観の修行をするならば、彼はジャーナと道果を証悟する事はできます。もし過ちを正さないで、しかも、本当にジャーナに到達したのならば、彼は真正の比丘ではなく、彼の犯した間違いは戒律の違反ではない、という事になります。

もしも在家の居士であるならば、状況はまた異なります。在家について言えば、戒清浄はリトリートの期間内に限定されます。彼らがリトリートの前には邪悪であったとしても、リトリート中には自分の戒を守れるのであれば、やはりジャーナに到達する事はできます。たとえば、≪法句経 Dhammapada≫の註釈の中に、クジュッタラー(Khujjuttarā)の物語があります。彼女はウデナ王(King Udena)の皇后サーマーヴァティー(Queen Sāmāvatī)の下女でした。ウデナ王は毎日八銭のお金を与えて、皇后の為に花を買わせましたが、クジュッタラーは、四銭を自分のポケットに入れました。ある日、仏陀が比丘たちと一緒にその花屋さんで食事の供養を受けていた時、クジュッタラーも花屋さんを手伝って、食事の供養をしました。食事の後、仏陀は仏法を開示し、クジュッタラーは初果須陀洹(sotāpanna)を成就しました。その日、彼女は四銭を自分のポケットには入れず、八銭全部を使って花を買いました。彼女が花をサーマーヴァティー皇后に差し出すと、皇后は不思議に思いました。花が増えていたからです。その時、クジュッタラーは皇后に自分の過ちを認めました。

次に、アングリマーラ(Aṅgulimāla)尊者の事を思い出してください。彼は有名な殺人鬼でした。しかし、出家して修行した後、彼は自分の戒行を浄化し、かつ修行に精進し、阿羅漢果を証悟しました。また、以下の事も考慮してください:生死輪廻の中で、人々は善い事もしますし、悪い事もします:悪事を働いた事のない人はいません。しかし、修行する時に彼らに清らかな戒行があるなら、以前の悪行は、彼らがジャーナに到達するのを妨害する事はできません。しかしながら、以前の悪行が、五種類の無間業(anantariya-kamma)の中の、どれか一つではない限り、です。

五無間業とは:

  1. 自分の母を殺す
  2. 自分の父を殺す
  3. 阿羅漢を殺す
  4. ご在世の仏陀の体の血を流させる
  5. サンガの分裂を引き起こす

もし、今生で五種類の悪業の内のどれか一つでもなしたならば、今生ではジャーナ、道と果を証する事はできません。たとえば、アジャセ王(King Ajātasattu )は十分な波羅蜜があったので、≪沙門果経 Sāmaññaphala Sutta≫を聞いた後に、初果須陀洹(sotāpanna)を証悟しました。しかし、彼は父親ビンビサーラ王を殺害したので、この悪業が彼の聖位(ariya)の証悟への障礙になりました。

あなたが質問の中で言っていた:ジャーナに到達した後、彼らの心または見解(考え)は変わりがないかどうか?ジャーナは長時間、五蓋を取り除く事ができます。ここで言う長時間とは、もし彼らが一時間ジャーナに入ったならば、一時間の間、五蓋は生起しません(という意味です)。しかし彼らがジャーナから出てきた後、五蓋は、不如理作意によって再び生起します。故に、ジャーナの後、彼の心が変わるかどうか、確定的な事は言えません。ただ、我々は彼がジャーナにいる間は、五蓋は生起しない、と言えます。

また例外もあります。あのマハーナーガ大長老(Mahānāga Mahāthera)の如くに。彼は法施阿羅漢(Dhammadinna arahant)の先生で、かつ60年以上止観の修行をしていましたが、彼は凡夫(puthujjana)でした。彼はまだ凡夫でしたが、しかし、強くて力のある止観の修行のおかげで、60年の間、煩悩が起きる事はありませんでした。故に彼は自分で:「私はすでに阿羅漢果を得た」と思いました。しかし、彼の弟子である法施阿羅漢は、師がまだ凡夫である事を知っていて、故に、法施阿羅漢は間接的に、彼がまだ凡夫である事を理解するようにしました。マハーナーガ大長老は自分がまだ凡夫である事を発見した時、再度観禅(vipassanā)を修行し、何分かのうちに阿羅漢果を証悟しました。これは非常に珍しい事例です。

あなたはもう一つ別の例を覚えておくといいでしょう。この大長老は、すでに教理(pariyatti)と禅の修行(paṭipatti)に精通していて、禅の修行を指導する先生(kammaṭṭhānācariya 業処阿闍梨)でもあり、多くの阿羅漢は皆彼の弟子でした。例えば、法施尊者。彼は止観に精通していたけれども、しかし、禅の修行の相似点において、彼には誤解が生じる事がありました。故に、あなたは自分で:「私はすでに初禅を証した・・・」と思うならば、あなたは多くの時間、多くの月日をかけて、徹底的に自分の禅修行の経験を検査するべきです。どうしてか?もし真正のジャーナであり、また真正の観禅(vipassanā)であれば、それらはあなたに非常に大きな利益をもたらします。というのも、それらはあなたが真正の涅槃を証悟するのに大いなる助けになるからです:涅槃は上座部仏教の「浄土」です。しかしながら、もし偽りのジャーナと偽りの観禅(vipassanā)であるならば、この種の利益は生じる事はありません。あなたは本当の利益を得たいですか、それとも偽りの利益を得たいですか?あなたは自分の胸にこの問題を問うて下さい。

故に、私は、あなたが他人に対して慌てて:「私はすでに初禅を証した・・・」と言わない方がいいと思います。というのも、あなたを信じない人がいるからです。また、あなたの経験は真実の場合もありますが、偽りの場合もありえます。ちょうどマハーナーガ大長老のように。あなたはこの問題を知っておくべきです。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。