ここで我々が話題にしているのは<人>である。観じたり、
見たりすることのできる人間、いつの時でも、目が観じ、
見る時、自然に周辺の物事、事柄を目にするが、見たもの
に意義がなければ、縁起とは関係がない。
目が見たものが、樹木、野草、石ころなどであれば、これら
の品々は、通常の状況下では、何らの意義を有さない。
しかし、もし見たものがダイヤモンド、神聖なる石、または
特殊な意義を持つ樹木であれば、心は起こって、造作し、
縁起を形成する。
こうした事から、我々は以下のような結論を得る事が出来る:
6根(眼、耳、鼻、舌、身体、意)が6塵(色、声、香、味、
触、法)と接触する時、その6塵が、観ずる人、見る人にとって、
意義がある時、6 塵は無明、愚かさ、迷いの拠り所となる。
このような根・塵の接触によってのみ、識は生じるが、
接触によって、その時生じた識は、捻転・相続して行を生じる。
行とは一種の、不断に造作する原動力であり、それは、名色を
創りだすことができる。こうして、観る者をして、元々は正常で
あった身心を、瞬間的に「不正常、発狂」の身心に転換させ、
そして身心は即、苦を受けるという訳である。
一たび名色が変化したならば、眼、耳、鼻、舌、身体、意も
またこれに従って「不正常、発狂」した6根となり、
捻転・相続して、「発狂した」所の触、受、愛、取、有を
引き起こし、最後に生を生じせしめる。
いわゆる生とは、完璧なる「私」の生起であり、取、生、老、
病、死または各種の苦痛によって、即刻、生じるものなのである。
上述したものは、日常生活上の縁起の実例であり、私は、縁起に
関して、十分に皆様の理解を得られたと考える。
縁起とは、今・ここで生起する、11種類の状況の流転・捻転
であり、一日の間に、何十回、何百回と流転していながら、我々が
知らないでいるだけなのである。一回の流転を無理やり三世ーー
前世、今世、来世に当てはめるのは、間違っている、完全に
間違っている!!
みなさんの多くは、縁起を誤解しており、私は、三世を貫通
して説明する縁起は、すでに、原始パーリ経典の原義を逸脱
している、と信じている。
私は、その理由を次頁に述べるが、先に結論を述べれば、
縁起とは、稲妻の如く生・滅するもので、心の中に苦を
生じせしめ、かつ、それは、我々の日常生活の中で出現
するものである、と言う。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)