Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー40

ここで我々が話題にしているのは<人>である。観じたり、

見たりすることのできる人間、いつの時でも、目が観じ、

見る時、自然に周辺の物事、事柄を目にするが、見たもの

に意義がなければ、縁起とは関係がない。

目が見たものが、樹木、野草、石ころなどであれば、これら

の品々は、通常の状況下では、何らの意義を有さない。

しかし、もし見たものがダイヤモンド、神聖なる石、または

特殊な意義を持つ樹木であれば、心は起こって、造作し、

縁起を形成する。

こうした事から、我々は以下のような結論を得る事が出来る:

6根(眼、耳、鼻、舌、身体、意)が6塵(色、声、香、味、

触、法)と接触する時、その6塵が、観ずる人、見る人にとって、

意義がある時、6 塵は無明、愚かさ、迷いの拠り所となる。

このような根・塵の接触によってのみ、識は生じるが、

接触によって、その時生じた識は、捻転・相続して行を生じる。

行とは一種の、不断に造作する原動力であり、それは、名色を

創りだすことができる。こうして、観る者をして、元々は正常で

あった身心を、瞬間的に「不正常、発狂」の身心に転換させ、

そして身心は即、苦を受けるという訳である。

一たび名色が変化したならば、眼、耳、鼻、舌、身体、意も

またこれに従って「不正常、発狂」した6根となり、

捻転・相続して、「発狂した」所の触、受、愛、取、有を

引き起こし、最後に生を生じせしめる。

いわゆる生とは、完璧なる「私」の生起であり、取、生、老、

病、死または各種の苦痛によって、即刻、生じるものなのである。

上述したものは、日常生活上の縁起の実例であり、私は、縁起に

関して、十分に皆様の理解を得られたと考える。

縁起とは、今・ここで生起する、11種類の状況の流転・捻転

であり、一日の間に、何十回、何百回と流転していながら、我々が

知らないでいるだけなのである。一回の流転を無理やり三世ーー

前世、今世、来世に当てはめるのは、間違っている、完全に

間違っている!!

みなさんの多くは、縁起を誤解しており、私は、三世を貫通

して説明する縁起は、すでに、原始パーリ経典の原義を逸脱

している、と信じている。

私は、その理由を次頁に述べるが、先に結論を述べれば、

縁起とは、稲妻の如く生・滅するもので、心の中に苦を

生じせしめ、かつ、それは、我々の日常生活の中で出現

するものである、と言う。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)