Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー17

仏陀「無我」(要旨)

ある種の人々は、他人が仏陀「無我」

教えに言及すると、非常に驚くことがある。

ここで、特別に仏陀について陳述するのは、

その他の学説の中に、あるものは非常に仏陀

の教えと似ているものがあり、しかし、

仏陀の教え、たとえば「無我」は、その他の

学説の中で言われている「無我」とは

異なるものであるからである。

 

すべてはただ自然な「法」である~

仏陀が述べた「無我」は、その意義は

(+論理学的に)非常に広く周縁にまで

広がっており、事物の中に「自我」が

あることを認めないし、いかなる個体をも

「自我」とみなすこともない。

「自我」について、もっとも明確な

定義は:

「自我」は幻想ではなく、因縁にたがわず、

自ら存在している実体であり、触ることが

できず、(+影響を加えて)左右すること

もできないものである。

これは、宗教上での専門用語でいえば、

「無為法」(asaṅkhatadhamma)と言い、

無為法に相対するのは「有為法」(saṅkhatadhamma)である。

有為法は、各種の因縁によって組合され、

組成されたもので、かつ、それらの助けに

よってしか形成できないがゆえに、実体が

ないし、かつ、(+存在が)短時間である。

こういう言い方をするならば、世俗の物質

または精神上での事物は、有為法で

あると言える。

更に正確に詳細に述べれば、無為法の境地

とは真理の境地であり、または涅槃である。

それは我々をして間違って「自我」と

誤解させる。

というのも、それは不変という形式で

出現するからである。

それが存在し、かつ形象を持つとしても、

決して、幻想の一種ではない。

しかし、それは尚、「自我」ではなく、

またはほかのものでもない。

その上、それは事物自身の「自我」で

あるとか、または他の事物の「自我」と

認められるべきでもない。

これが、仏陀の言う「諸法無我」である。

更に深く述べれば、一切すべては、

自然的な「法」であり、または自然的な

事物にすぎない。

それは二つの領域に分けることができるが、

すなわち、先ほど述べた有為法と

無為法である。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>