ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー17
教えに言及すると、非常に驚くことがある。
ここで、特別に仏陀について陳述するのは、
その他の学説の中に、あるものは非常に仏陀
の教えと似ているものがあり、しかし、
学説の中で言われている「無我」とは
異なるものであるからである。
すべてはただ自然な「法」である~
(+論理学的に)非常に広く周縁にまで
広がっており、事物の中に「自我」が
あることを認めないし、いかなる個体をも
「自我」とみなすこともない。
「自我」について、もっとも明確な
定義は:
「自我」は幻想ではなく、因縁にたがわず、
自ら存在している実体であり、触ることが
できず、(+影響を加えて)左右すること
もできないものである。
これは、宗教上での専門用語でいえば、
「無為法」(asaṅkhatadhamma)と言い、
無為法に相対するのは「有為法」(saṅkhatadhamma)である。
有為法は、各種の因縁によって組合され、
組成されたもので、かつ、それらの助けに
よってしか形成できないがゆえに、実体が
ないし、かつ、(+存在が)短時間である。
こういう言い方をするならば、世俗の物質
または精神上での事物は、有為法で
あると言える。
更に正確に詳細に述べれば、無為法の境地
とは真理の境地であり、または涅槃である。
それは我々をして間違って「自我」と
誤解させる。
というのも、それは不変という形式で
出現するからである。
それが存在し、かつ形象を持つとしても、
決して、幻想の一種ではない。
しかし、それは尚、「自我」ではなく、
またはほかのものでもない。
その上、それは事物自身の「自我」で
あるとか、または他の事物の「自我」と
認められるべきでもない。
更に深く述べれば、一切すべては、
自然的な「法」であり、または自然的な
事物にすぎない。
それは二つの領域に分けることができるが、
すなわち、先ほど述べた有為法と
無為法である。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>