南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~急がば回れ

仏陀が偉大なのは、定(止禅)より、観禅(五取蘊における無常・苦・無我の三相の観察)の方が、「己とは何か」の覚醒にとっては大事であると悟り、また、その観禅の手法自体を、他人に教える事が出来たから(世の中、宇宙の真理を悟ったはいいけれど、上手に説明ができない、教えられない人はたくさんいるらしい)。

しかし、観禅だけあって、止禅は必要ないのかと言えば、それは違う。

仏陀は、悟った後、自分の悟った内容を伝えようと、以前の教師である二人の仙人(アーラーラ・カーラーマともう一人)を訊ねようとした。

しかし、仏陀の神通力で確認した所、彼らはすでに他界していたので、次善の策として、鹿野苑にいる五人の比丘を尋ねて《初転法輪》を説いたのである。

二人の仙人は、それぞれが<定>の名人であった。そのうちの一人は、非想非非想処なんて、我々には、ちょっ想像できない深い定の技を持っていた。

もし、ヴィパサナに止禅(定)が必要ないのであれば、仏陀はなぜ、この二人の仙人に会いに行こうとしたであろうか?

ヴィパサナに止禅が必要でないならば、仏陀は、定のない、そこら辺にいる、普通の凡夫を相手に、ヴィパサナを説けばよかったのではないだろうか?

仏陀はどうして、定の名人である二人の仙人を尋ねて観禅を教えようとし、次には鹿野苑まで行って五人の比丘に会うという、最も面倒な手順を踏んだのだろうか?

それは、ヴィパサナには、深い定が必要であるから、と言えるのではないか?

勿論、深い定に入ったままでは、ヴィパサナという(刹那生・滅を対象とした)<観察>はできないけれど、ヴィパサナは定の力抜きには、実践できない。

大乗には止観双修という言い方があり、止禅と観禅は同時という。何をどう悟ると、止観双修というのか、私は寡聞にして知らないけれども、観禅には、止禅が必要だという事には変わりがない。

急がば回れ

止禅という基礎をしっかり打ち建ててから、観禅に進むのが合理的だと、私は思う。