摩嗄藍は再び問うた:
”一人一人の弟子は、そのように指導された後、修行の最終目標ーー涅槃を証悟する事はできますか?”
世尊は答える:
”ただ一部分の人だけが、修行の最終目標ーー涅槃を証悟することができます。ある種の人々はできません”
摩嗄藍は不思議に思って問うた:
”友、ガウタマよ。涅槃は存在しており、涅槃へ向かう道も存在していて、あなたはその指導者である。どうして、あなたの弟子は、このように指導されて後、ある種の人々だけが涅槃を証悟でき、ある種の人々には証悟できないのでしょうか?”
世尊は答える:
”では、私が訊ねます。あなたは、王舎城へ向かう道を知っていますか?”
”ええ、友よ。私は知っています”
”もし、ある人が、王舎城へ行く道をあなたに尋ね、あなたは詳細に、その方向と道筋を教えてあげたとする。その人は、あなたが示した方向とは反対の道に間違って向かってしまった。もう一人の人も、あなたに道を聞いたが、彼は聞いた通りの道順を行って、王舎城に順調に到着した、とします。
私はあなたに問います。
王舎城は存在している。王舎城へ向かう道も存在している。あなたはその道を教えることができる。それなのに、なぜ、ある人は反対の方角に歩いて道を間違えてしまい、もう一人は順調に王舎城に到着する事ができるのでしょうか?”
”友、ガウタマよ。このことに対して、私に何ができるでしょうか?私は道を教える事しかできません”
世尊は言った:
”同様に、涅槃は存在するし、涅槃への道も存在する。また、私はその(+道を教える)指導者である。しかし、私の弟子は、このような指導を受けた後、ある種の人々だけが涅槃を証悟でき、ある種の人々は証悟することができないのです。このことに対して、私に何ができるでしょうか?私如来は、ただ道を教える人にすぎません。”
上記の経文を通して、我々は、仏陀の仏教における地位が分かるーー彼は、ただ涅槃への道を指し示す人に過ぎず、真正に教えを守り実践することができるかどうかは、修行者個人の問題なのである。
仏陀は《法句(+経)》の第276偈で言う:
”あなた方は、
己自身で努力しなければならない。
如来はただ道を示す人に過ぎない。
勤勉に勤め励む修行者は、
魔の束縛から解脱することができる。”
仏陀の教法に神秘はなく、麻酔の要素もなく、他力もなく、救世の信仰もない。
仏陀は、人々の吉凶や幸不幸をコントロールすることはなく、人を助けて消災や贖罪をすることもなく、私利貪欲なる神霊を満足させることもなく、美しい世界を創造すること(+を呼びかける事)もなく、神を信じて永遠の天国に行くようにと、教えているわけでもない。
仏陀は智慧と慈悲を具足した偉大な導師ではあるが、彼は、彼に対して人々が盲目的に崇拝するのを好まなかった。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-10につづく)
訳者コメント:下線訳者。「涅槃は存在する」貴重な宣言ですね。涅槃とは何か?よく「無記だから、あまりよく分からない」と言われますけれど、常・楽・無我・清浄ではあるらしいです。涅槃体験自体は、人間の言葉では説明できない不思議な境地、でも「絶対に存在する」、そんなところでしょうか?
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>