たとえば、あなたが誰かの言動に対して怒っているとして、それは、あなたが、その人の言動を気にしているからであって、その時、あなたの心は、その人の言動の罠にかかっているのである。もし、あなたが、あなたの心を、彼の言動から引き離し、己自身の心を顧みることができたならば、あなたは発見するに違いない:怒りとは、己の心を、相手の言動の上に、きつく縛り付けて置いたが故に生じた(+心理的な)現象、であることを。
その上、怒りの心は、(+彼の言動と同じく)醜悪であり、彼の言動より上品である、という事もない。
心を外縁から引き離し、<今ここ>の心・身の状態に気が付いている事、これが正念正知である!
もし、あなたが、正念正知の育成の仕方を掌握したならば、あなた修行することができる。
修行することのできる人とは、生真面目に、ひたすら、座禅堂の座蒲の上に座っているだけのものではない。
真諦の修行方法を掌握した人は、歩く時、立っている時、座っている時、服を着る時、食事する時、水を飲む時、お手洗いに行く時でさえも、あらゆる場所に、その時々が、修行なのである。
心をして、<今ここ>の心身の状態に安住せしめる事、これが正念正知であり、これこそが修行なのである!
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-11につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>