これらの因の中で、最も基本的なものは、心の中に五蓋があるか、ないかである。
五蓋があるとき、邪定が生じる;
五蓋がないとき、正定が生じる。
≪中部・第108牧者目連経≫の中で、婆羅門が問う:
「世尊は、あらゆるジャーナ(定)を称賛するのでしょうか?」。
世尊は以下のように答えた:
「婆羅門よ、すべてのジャーナ(定)が、世尊によって称賛されるという事はない。また、すべてのジャーナ(定)が、世尊によって譴責されるという事もない。」
「どのようなジャーナ(定)を、世尊は称賛しないのか?
ある種の人々の心は、貪欲によって繋縛され、貪欲に飲み込まれ、(どのようにして)如実に、すでに生起した貪欲から離れればよいのかを知らない。心内の貪欲を増長させながら、彼は定を修し、更に定を修し、(+正しい)定を修することに反し、間違った定を、修している。」
「彼の心は憤怒、昏沈と眠気、浮つきと後悔、懐疑によって繋縛され、憤怒、昏沈と眠気、浮つきと後悔、懐疑に飲み込まれ・・・世尊はこの種のジャーナ(定)を称賛しない。」
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-28につづく)
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>