<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
少しばかりの覚知(=自覚)があれば、我々は、我々の心内の評論は「私」や「私の」を巡ってグルグル回っていることが分かる。
我々は、己自身について、煩わしさを感じるようになり、この内心のラジオを止めて、少し静かにしていたいと思う(+ようになる)。
段階的な訓練を経て、最後には、このラジオは止めることができる。
その時、まさに仏陀が言うように、我々の心内にはいまだ、法を分析したいと思う、慣習的な想いが残っている(+ことに気が付くであろう)。
多くの仏法書を読んだことのある人々は、彼らのその時点での修行体験(境界)を名づけたり、分析したりする:
「これが、あの平静な知覚なのか?」
「これは近行定なのか、それとも安止定なのか?」
「私は今、非常に強いエネルギーを生じているのか?それともこれは、定力なのか?」
・・・
この段階において、もしあなたが、あなたの修行の目的を、はっきりと思いだすことができるならば、あなたはこの関門を超越することができるかであろう。
止禅を修行する目的は、内心の完璧な安寧と静けさ(+を獲得すること)であり、静止と清明であり、あらゆる先入観を取り払って、自由な心でもって、<今・ここ>の境界を体験し、享受するものであり、それを分析する必要はないのである。
法を分析しようとする考えも消え去った時、心は自然に、まったくの造作を必要としない一心なる専注に進入するのである。
◆結論:
以下の四種類の段階の煩悩を浄化する事を通して、我々は、最終的に禅定を得ることができる。
(一)身体と言語の方面において、表出される粗い煩悩:五戒への違反。
(二)意念において、過去の出来事や未来の計画に対して、五蓋などの思いや考えが生じる。
(三)意念において、「私」「私の」を巡って内心に論評が起きる。
(四)意念いおいて、修行の体験(境界)を名づけたり、解釈したいがために、法を分析する考えが生じる。
(2-37につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>