「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-29
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
日は一日一日と過ぎ、生活は相変わらずではあったが、彼女は希望を抱いて、忍耐強くチャンスを待った。何週間の後のある日、彼女は布麻が機嫌がよいのに気が付いた。彼女は、自分を自由にしてほしいと、再度、頼んでみた。
布麻は再び拒否したが、その理由は、彼女が出家したならば、彼が、夫としての責任を果たせないために、妻が妊娠しないのだという噂話を、皆はコソコソするだろうから、というものであった。
この事に関して、達白はどのように言っていいのか、分からなかった。
このことは、とりもなおさず事実であり、彼らは結婚して10年になるのに、子供が生まれなかった。
両方の親戚の家族は、それぞれ子供が列をなしているのに、ただ彼らだけが、子宝に恵まれなかった。
本来、これは幸運な業報であった:
というのも、そういうことであれば、彼女は出家しやすくなるからである。
しかし、それもまた今となっては、家を出られない足かせになってしまった。
彼女は布麻に道理を説いて、理解を得ようとしたが、彼はどうしても、ウンとは言わなかった。
普泰の家庭は、通常、非常に大きく、赤子の誕生は、歓迎された。というのも、家に新しい成員が増えるという事は、利益を生みだす力が増えたということである。
子供は成長すれば、家事や農作業を分担できるし、養老、介護もできる。
達白が結婚して、10年も経つのに、いまだ子供に恵まれないので、年配者や従兄弟たちが、彼女に代って心配した:
彼女が老いた時、誰が面倒を見る?
その故、その中の、すでに子だくさんの従姉が懐妊した時、達白と相談して、達白の子供として、養子に出すということになった。
出産の時、達白は産婆の役を果たした。
生まれた子は、女の子であった。
達白は可愛くてしかたないように、この子を抱いて帰り、名前を ”ケーウ”、私の ”愛すべき小さな子供”、とつけた。
人々は、達白に養女が来てから、明るくなり、細心の注意を払って子育てし、母性の喜びにあふれるのを見て、皆は彼女の事を ”メー・ケーウ”と呼んだ。
その意味は、”ケーウのママ” である。
この呼び名はごく自然に広まり、その後、彼女は親しみを込めて、皆に、メー・ケーウと呼ばれるようになった。
ちびっこケーウは、聡明で活発な女の子に成長し、母親が仕事の時、熱心について回った。
彼女の動作は、母親と同じようにてきぱきとしていて、いかにも、敏捷な様を見せた。
メー・ケーウは、母親が逝去したために、仕方なく小さな頃から、色々な手工芸や技術を身に着けたのだが、彼女は娘にも、彼女と同じように、子供の時から自主的で、責任感のある心意気を発揮して欲しいと思った。
(3-30につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay