<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
修行者は、以下のレベルの「如理作意」を、実践しなければならない:
食べる、飲む、沐浴する、または厠、食器洗い、洗濯などなどの日常的な活動において、たとえば、食べる時、物を食べるのは、ただ苦を治するためだけ、であると観照する。
咀嚼する時、一口毎に注意を払い、一刻一刻、食べ物を飲み込む時の感受に注意を払い、飢餓が徐々に解除される感受にも、注意を払わねばならない。
食べ物を咀嚼する時、あなたは、その一口、一口は皆、苦を治する為である事に、注意する必要がある。
このようにすれば、あなたは、飢餓の苦が迫って、あなたをして咀嚼させ、飲み込ませているーー享楽の為に食べているのではない、という事を体験する事ができる。
朝、目が覚めた時、横になっている色身に注意を払う。起き上がる時は、原因(「如理作意」)に注意を払うーー飢餓の為に、何かを食べたいとか、他人を起したいとか、ただこれ以上寝ていられないから・・・等々、横になっている色身が、起き上がらざるを得ないのは、これ以上寝ていられないからであり、横になっている色身は、すでに苦痛を感じているが故に、起き上がらざるを得ないのである。
もし、顔を洗う為に起き上がったとしても、やはり、苦を治する為なのである。
しっかりと「如理作意」をもって観照し続けるならば、煩悩は、我々の覚受(=感受)を支配することはできなくなる。
「如理作意」は、我々をして、色身は、運用されるが(=動作が展開されるが)、それは「私」ではない事を、知らせてくれる。
(2-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>