<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
この種の修法にとって、定に偏り過ぎるのは、よい事ではない。
(+定が過分の時)座って観照する時、修行者は、ただ座っている姿勢を知っていて、座っている色身を知らない;
または同様に定が過分の時、修行者は、己自身の座る姿勢さえも分からなくなる。
これらの状況は、定が余りに過分すぎる事によって生じる。
ある種の活発な運動(=動作)は、定の偏りを減らすのに、よい効果がある:
仕事、早歩き、または走る等。
どのような状況の下にあっても、ある種の姿勢において定に偏るならば、姿勢を変える必要がある(定の偏りを直すため)。
定の問題に関して、アチャン・ネンは言う:
「四念処を所縁とする定は、貪念を引き起こす事はない。というのも、四念処の定は智慧ーー苦を体験・証悟する智慧ーーを誘発する事ができるるが故に。」
「人を楽しくさせる定は、四念処の定ではない。というのも、この種の定は単純ではなく、この種の定は煩悩と相応しておいる。
この種の定は、楽受を誘発する事はできるけれども、顛倒妄想を断じ除く事はできない。
この種の定は、有為法(心によって造られる、行蘊の活動)であり、五蘊(身・心)の一部分であり、苦を滅することーーすなわち、涅槃に到達する事はできない(涅槃も心ではあるが、しかし、それは常で楽である。というのも、それは五蘊に属さないが故に)。この種の、短くて暫定的に生起する涅槃には、感覚が存在しない。」
修行者が定に偏りすぎている状態においては、座る姿勢は座る色身である、という覚受の認識を失ってしまう。しかし、彼において、己自身は、座る色身を感じていると思いなす。
というのも、彼には、彼をして間違いに気付かせる所の覚察力に欠けていて、座る色身を感じる事ができなくなっているためである。
また、覚察力が欠けている時においても、修行者は、苦を感じるが、しかし、座る色身の苦を認識する事ができず、彼は「彼」が苦を感じているのだと思ってしまう。
このようであれば、彼はいつまでたっても、この種の、「私」が座っている、「私」が苦しい、など等の概念から離れる事ができず、故に、自我の邪見を断じ除く事ができない。
(2-28につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>