南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」3-4

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

3、遍知智

一つ前の階智では、修行者は、ただ心身の因(生起)をのみ、体験・証悟しただけで、まだ、身・心の滅ーー身体が迅速に、不断に生・滅するーを見ていない為、生・滅の現象を見ても、修行者の智慧は、いまだ非常に弱い。

もし、修行者が、継続して、<今・ここ>において、身・心を観照するならば、彼は非常に早く、生・滅する身・心を見ることができるであろう。

しかし、この時、相続の切れ目を見るには、智慧が不足している。

たとえば、座る姿勢から立つ姿勢に変わる時、修行者は、滅し去った古い姿勢(座る姿)を見ることができる。

しかし、座って<今・ここ>を観照する時、智慧がいまだ十分に強くない為、生・滅する身・心を見ることができない。しかし、彼は、身・心の三法印を理解することはできる。

そして、この段階は、いまだ<今・ここ>とは言えない。

真正な<今・ここ>は、第四階智によって、ようやく現前する。

《清浄道論》は、この智を「審察遍知(=省察遍知)」と呼んでいる。

七清浄の中で、この智は「道非道智見清浄」と呼ばれ、この智は、修行者をば、真実の道ーーすなわち、次の階智へと、導くことができる。

4、生滅随観智

この智は、身・心の生滅と、相続の感覚(身・心は相続しているという錯覚に対する妄執)を体験・体得するものである。

今、修行者は、実際には、身・心は生滅しているという、分離的現象を見る事になるーー(慧の修習の下の)<今・ここ>において。

この段階の智階において、修行者は身・心が同時に生・滅しているのを見ることができる。

実際は、仏陀によると、心の生・滅は、身体の生・滅より17倍速いーーただ、修行者は、これほど速い速度(の身・心の生と滅)を見ることができないが、しかし、彼は、両者(身・心)が同時に生・滅するのを、見ることができる。

この智においては、はっきりと、身・心の三法印を見る事ができるし、また三法印は心の中に潜伏する煩悩、すなわち、愛、我(「私がいる」という錯覚)、見(邪見)と顛倒妄想を取り除くことができる。

この智は、修行者に対して、修行が正しく行われているかどうか、教えてくれる。

もし、修行が正しければ、涅槃へと導かれる。

正しい修法によって生起した智見とは、観智(第四から第12階智まで)を言うのであり、もし、修行が間違っている場合、観の染(=汚染)が生じるーー10種類の観の汚染があり、これを vipassana染と呼ぶ。(次の段において、vipassana染の紹介をする)。

もし、vipassana染が存在する時、修行者の清浄が不足している為、汚染(煩悩)を離れることができない事を表しているーーというのも、煩悩は深く(+心の内に)沈んでおり、智慧が微弱である為に、それを厭離する事が出来ないのである。

この種の汚染は、定に偏りがある為に、生じたものである。定に(+過分に)偏ると、修行者は観智から離れる事になり、異なる境地に執着するようになる。

これらの境地は、非常に容易に、修行者をして、涅槃(+に到達したのだと)誤解させる。

これらの境地には、光明、喜、捨など等が含まれる。

もし、修行者が以前に定の修行をした事があるならば、非常に定に偏り易い。

この時彼において、この種の定の境が再三再四現れるならば、vipassanaにとっては、非常に大きな障礙である事に気が付くであろう。

信が強すぎるか、または精進が勇猛すぎる場合もまた、障礙になる。

この10種類の汚染は非常に人を誘惑し、修行者がこの境地の中に執着するようにさせ、その上、迷妄として、それが涅槃であると誤認させる。

指導者が彼に、それは涅槃ではないと教えても、彼は決して受け入れない。

もし、修行者が、この汚染から離れないならば、彼は、更なる上位の階智に、昇る事は出来ない。

(3-5につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>