<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
「未生の悪業(未だ生じない悪業)」とは、未来の悪業を言う。
今生における、次の刹那から始まって、今生であろうが、来世であろうが、その機縁の中に、一人の人間がなすであろう一切の悪行は、すべて「未生」(未だ生じない。anuppanna)と言う。
一人の人間が今生で行う所の新しい悪業は、何世代も打ち続くのである。
すべての、いわゆる「未生の悪業」は、みな「身見」が原因となっている。
ひとたび「身見」が消えたならば、一切の、これからなすであろう、新しい「未生の悪業」は、刹那に消失し、消え失せ、何等の痕跡も残さない。
ここにおいて、「消失」という意味は、まさに犯した悪業は(まさにこれから犯そうとする悪業は?)、未来において続いていく生命から、また、輪廻の中に存在する機縁から、即座に消え去るのである。
来世の輪廻の中において、これらの衆生は、たとえ夢の中でさえも、諸々の悪業、たとえば、殺生さえも犯さない。
もし「身見」がいまだ存在する時、たとえ彼が宇宙の王で、宇宙全体をコントロールしているとしても、彼の前後には、なお地獄の火が迫っているのである。
すなわち、「已に生じた悪業」と「未だ生じない悪業」に包囲されているのである。
こうしたことから、彼は純粋に疑いもなく、地獄の熱火の中の命に過ぎない事が分かる。
同様に、帝釈天、忉利天の天王、色界、無色界梵天の梵王などは、みな地獄の熱火の中の命である事が分かる。
彼らは地獄と、三悪道に繋ぎ止められた命であり、輪廻の大きな渦の中で、浮沈して不安定であり、留まる事がないのである。
「已に生じた悪業」、「未生の悪業」を消し去る任務は、徹底的に「身見」から抜け出すことである。
もし、「身見」を根絶する事が出来たならば、この二種類の悪業は、完全に消失する。
「ソータパナ道果」に証入する聖人、たとえば、Visākhāと給孤独長者(Anāthapiṇḍka)は、すでに人類、天人、梵天において無数回転生しているが、しかし、彼らは、「身見」を取り除くその刹那から始まって、輪廻の大きな渦の中で漂流する事から解脱したのである。
彼らは、第一段階の涅槃を証悟した衆生であり、そのレベルは「有余涅槃」(五蘊が依然として存在する涅槃)と言う。
彼らは、いまだ輪廻する事はあるが、すでに凡夫ではなく、彼らは出世間の聖者である。
ソータパナ果聖人とは、この二種類の悪業から解脱した者を言う。
ここにおいて「已に生じた悪業」と「未生の悪業」に関する解説を終える。
(3-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>