南伝仏教のDhamma book

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FDC資料「37道品ハンドブック」11-2 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「我見」は旧い悪業の首領であり、故に、持続的に、衆生の上に、付いて回る。

「身見」が存在していさえすれば、これらの旧い悪業は、非常に猛烈に、力を充満させる。

衆生は、六天界の天神または帝釈天のように、享楽を思い切り楽しむ事はできるが、しかし、最後には、四つの苦界に落ち込むことになる。

同様に、衆生は、色梵天、無色梵天において、享楽を思い切り楽しむことはできるが、最後には、四つの苦界に落ち込むことになる。

棕櫚の木の実は、木のてっぺんに成っているが、しかし、その実は、いつかは地面に落ちてくる。

棕櫚の木が、まっすぐに立っているかぎり、実は木の上にあるが、しかし、木が枯れるやいなや、実は、地面に落ちざるを得ないのである。

同様に天神、梵天の命「木の幹」が健在・無欠であるならば、天人、梵天は、天界または梵天界に生まれて、「我見」に苦しまなければならない。

これらの生命「木の幹」が折れたならば、彼らは必ず、低層の苦界に落ちざるを得ない・・・ちょうど、木の実が、いつかは地面に落ちるが如くに。

「身見」は衆生の作意・思惟の中に、頻繁に出てくるが、「身見」が齎す苦悩は、摩奴大山よりなお巨大である。というのも、「身見」は意識の中にあって、無窮の悪業を聚合するが故に。

こうした事から、衆生は、たとえ最高の梵天界に生まれたとしても、「身見」に関する作意・思惟がいまだ存在する限り、引き続き、苦界において苦しむ事になる。

低層の梵天界または天神界における生活、人類としての衆生の生活は、もっと酷いものである事は、言うまでもない。

これらの衆生は、梵天王であったり、天神王であったり、または帝釈天王であたりするかも知れないが、彼らの作意・思惟には、八層の地獄が含まれている。

同様に、彼らの作意・思惟は、無数の低層の地獄、餓鬼道、阿修羅道畜生道も含まれている。

その原因は、これらの衆生が、低層レベル(+の世界の傾向)、また貪欲で吝嗇の世界の傾向が、恒常、彼らの作意・思惟の中に顕現している事を知らないからである。

そうであるのに、梵天王及び天神王は、これらの境界の中で、快楽を追い求めているのである。

旧い悪業の首領である所の「身見」が、完全に断じ除かれた時、衆生に付き従い、止まる事の知らない輪廻の内の一切の旧い悪業は、その時初めて、徹底的に滅し去るのである。

前世に従って付いてきた旧い悪業は言うまでもなく、今生で行った無数の悪業、たとえば、殺生、盗みの業などは、唯一「身見」が完全に断じ除かれた時初めて、彼らの(+悪の)果報もまた、徹底的に消失するのである。

この事を人類に即して言えば、(+「身見」を断じ除いた人は)なお虫を恐れ、昆虫を恐れたりするものの、尽きる事のない悪業の果報に怯え、懼れる必要は、なくなるのである。

(11-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>