Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10‐23(329/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

回答13

「ここにおいて、学生よ。

男性または女性がいて、沙門または婆羅門を訪問した時、

『尊者、何が善ですか?

何が不善ですか?

何が過失ですか?

過失がないとは何ですか?

何を育成するべきですか?

何を育成するべきではないのですか?

どの様な行為が、長期的な痛苦を齎しますか?

どの様な行為が、長期的な安楽を齎しますか?』

と質問しない。

この様な行為を履行し、従事する為に、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は苦界、悪趣、堕処、地獄に生まれ変わる。

しかしながら、もし、身体が壊滅し、命尽きた後、苦界、悪趣、堕処、地獄に生まれ変わらず、人として生まれ変わったならば、どこに生まれ様とも、彼の智慧は暗愚(劣等な慧)である。

学生よ。

これが智慧の暗愚に到る道であり、すなわち、沙門または婆羅門を訪問した時に、

『尊者、何が善ですか?

何が不善ですか?

何が過失ですか?

過失がないとは何ですか?

何を育成するべきですか?

何を育成するべきではないのですか?

どの様な行為が、長期的な痛苦を齎しますか?

どの様な行為が、長期的な安楽を齎しますか?』

と質問しない(+事は、智慧の暗愚を齎す道である)。」

この經文に関して、この人が、悪道に堕ちる原因は、ただ単純に、彼が上に述べた幾つかの問題を質問しなかったということだけでなく、それらの質問をしない、という状況の下、どの様にして、正当な行為に従事してよいのか分からず、間違った事を実践してしまった事(+が問題なのである)。

これらの間違った行為と不善業のために、彼は悪道に生まれ変わるのである。

私は、須尼達尊者(Sunīta Thera)の物語を語りたいと思う:

過去のある一生の内、彼はちょうど村で托鉢をしていたパーチェカ仏に、軽視を伴って以下の様に言った:

「あなたは、他の人と同じ様に、手があり、足があるのであるから、あなたは、皆と一緒に仕事をして生活を建てなければならない。

もし、あなたに何等の技術もないのであれば、あなたはゴミ箱のゴミとゴミを拾って生計を立てるべきだ。」

なぜ、彼は、この様に間違った行為を実行したのであろうか?

というのも、彼は沙門または婆羅門に親しまず、何が善で、何が不善であうかを理解しようとせず、故に、彼は曖昧無知であった。

智慧が暗愚である為、彼は間違った行為と悪業を累積したのである。

彼は礼拝されるべき人を礼拝する事を知らず、

恭敬されるべき人を恭敬する事を知らず、

尊敬されるべき人を尊敬する事を知らず、

奉仕するべき人に奉仕する事を知らず、

供養するべき人に供養する事を知らない。

反対に、彼は軽視の口調でもって、パーチェカ仏と会話した。

この悪業が原因で、身体が壊滅し 命尽きた後、彼は悪道に堕ちて苦を受けた。

こうしたことから、愚痴(=愚かで無知な事)は、衆生の非常に危険な煩悩であることが分かる。

ゴータマ仏の時代、彼は王舎城の道路清掃者の家庭に生まれ、街道の掃除をする仕事によって、辛うじて、貧苦の生活を維持していた。

ある日、仏陀は、須尼達が、過去世において、すでに充分な波羅蜜を蓄積しているのを見て、彼が阿羅漢果を証得する事を支援することができる、と考えた。

そして、ある朝早朝、仏陀と500人の比丘は須尼達の所へ行った。

その時、彼はちょうど街道を掃除して、ゴミ箱の中のゴミと廃棄物を拾っている最中であった。

彼は仏陀を見ると、心中に敬意の心が充満し、自分がどこに立てばいいのか分からない程で、結局、壁に背を沿わして、直立して立っていた。

仏陀は近づいて行き、出家して比丘になりたいかどうか、訊ねた。

彼は、非常に、出家して比丘になりたい、と願っていると答えた。

仏陀は以下の様な言葉で、彼の出家を受け入れた:

「善来、比丘、法は已に善く説かれた、究極苦を離れるために、梵行を堅持せよ。」

仏陀は須尼達を連れて寺院に戻り、彼に禅修の業処を教導した。

須尼達は、当該の業処の修行に励んだ後、阿羅漢果を証得した。

その後、多くの天神と(+天)人が、彼に礼拝しに、やってきた。

須尼達は彼らに、己自身が証悟することが出来た修行方法を教導した。

こうしたことから:業が衆生の高下を齎す、事が分かる。

次に、14番目の答えを聞いて頂きたい:

回答14

「ここにおいて、学生よ。

男性または女性がいて、沙門または婆羅門を訪問した時、

『尊者、何が善ですか?

何が不善ですか?

何が過失ですか?

過失がないとは何ですか?

何を育成するべきですか?

何を育成するべきではないのですか?

どの様な行為が、長期的な痛苦を齎しますか?

どの様な行為が、長期的な安楽を齎しますか?』

と質問する。

この様な行為を履行し、従事する為に、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は楽趣乃至天界に生まれ変わる。

しかしながら、もし、身体が壊滅し、命尽きた後、天界に生まれ変わらず、人として生まれ変わったならば、どこに生まれ様とも、彼の智慧は高く超越している。

学生よ。

これが智慧の暗愚に到る道であり、すなわち、沙門または婆羅門を訪問した時に、

『尊者、何が善ですか?

何が不善ですか?

何が過失ですか?

過失がないとは何ですか?

何を育成するべきですか?

何を育成するべきではないのですか?

どの様な行為が、長期的な痛苦を齎しますか?

どの様な行為が、長期的な安楽を齎しますか?』

と質問する(+者の、智慧が高く超越する道である)。』」

(10-24につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>