それは何か?
修行者が、いまだ出入息を知覚する前、彼の中において、「私は一回ごとの、比較的粗い身行、すなわち出入息を、徐々に静めよう」と思惟したり、専念したり、作意したり、観察したりすることはない。
しかしながら、彼がすでに出入息を覚知できるようになった場合には、そのようなことができる。故に、彼がすでに(+出入息を)覚知するようになったならば、その出入息の身行は、彼が覚知する前より、更に微細になっている、のである。
「思惟」(ābhoga)とは、(+心が)注意しはじめる、または分かる、または、心が息を静めようと、(+意識を)転換することを言う。
このように(+心が)不断に意を注ぐことを「専念」(samanāhāra)と言う。
「作為」(manasikāra)の直訳は、「意の造作」で、ここでは、(+心を)造作して、息を静めることを言う。
作意という心所は、心を目標に向かわせる責を持っており、それを通して、目標が心に顕現するのである。
「省察」(paccavekkhaṇā)は、息を静めるために「観察」(vimaṁsā)することを言う。
故に、この段階では、あなたがしなければならない事は、ただ、息が静まるようにと決意し、その後に、継続して不断に、息に専注することである。
この方法で修行するならば、定力が上昇した時、あなたは息がますます静かになっていることを、発見するであろう。
息が非常に静かになった時、それは非常に軽くて柔軟になるので、非常に観察しにくくなる。
これを微息と言う。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-9につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>