★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』12-3
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
五門心路の内の確定、または、意門心路の内の、意門転向と速行の間には、数々修習縁はない。
というのも、確定または意門転向と速行は、同一の種類の心ではないが故に;
最初の速行から第七番目の速行までには、数々修習縁が存在する;
最後の、第七番目の速行心と彼所縁(+に至る間に)にもまた、数々修習縁は存在しない。
意門心路を例にとると:
意ー速ー速ー速ー速ー速ー速ー速ー彼ー彼
【解説】上記表の、一番目の”意”は、意門転向(無因唯作心)で、次の”速”は、すべて速行心(業を造る心)である。
”彼”は彼所縁(異熟心)である。
意と速は、同じ種類の心ではないため、(+両者の間には)数々修習縁は存在しない。
一番目から七番目までの速行心(速)は、すべて数々修習縁が存在する。
最後、速から彼に至ると、(+両者の間の)心の性質が異なる為、数々修習縁は存在しない。
上述の通り、数々修習縁は、同じ種類の心の間にのみ発生するが、それはすなわち、速行心である。
また、善と善の(+間の)速行心にも、数々修習縁が存在するし、不善と不善の速行心にも、数々修習縁は存在する。
もし、あなたが、善心を何度も重複して続けるならば、善の力は、益々強大になり;
もし、不善心を重複して続けるならば、不善心の力は、益々強大になる。
たとえば、我々が、初めて布施をした時の嬉しさは、我々をして二回目の布施をしたいと思わせしめる。一回目の布施が、二回目の布施の心を強烈にするのである。
また、たとえば、初めてアビダンマを読んだ時、余り理解できないが、二回目で少し分かり、三回目でもう少し分かり、四回目ではっきりと理解する事が出来るようなものである。
これを数々修習縁と言う。
(12-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>