<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
意業は、三種類あり、それらは:
1、貪婪――貪心所と、他人の財物を得たいと思う欲望が、同時に生起する事。
2、瞋恨ーー瞋心所と、他人が傷つき、苦痛に出会うのを望む欲望が同時に生起する事。
3、邪見ーー業報の説を否定する事。
反対に、貪婪、瞋恨がなく、正見があるのは、意善業である。
凡夫が造る善業は、三個の善心(無貪、無瞋、無痴)と相応しているものの、なお、業と見做される。というのも、無明と愛欲が、いまだ生命流の中に潜在しているが故に。
無明と愛欲が生命流の中に潜在しているならば、造(ナ)した業は、依然として果報を齎す。
まさに一本の樹木においては、根が最も重要であって、根を切って取り除かなければ、ただ枝や幹だけを切っても、樹木は依然として成長する(+のと同じであって)、それは、根本が取り除かれていないが故である。
同様に、長い輪廻の内において、もし、無明と愛欲を取り除かないのであれば、我々が造る所の善業と不善業は、一たび、その因と縁が熟したならば、果報を生じせしめるのである。
(13-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>