<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
この三つの不善根は、身・口・意における駆動力である。
我々は、三つの不善業は、身体を通してなされる事を知っている。
どの三つか?
殺生、偸盗、邪淫である。
それらは、何の影響を受けてなされるのか?
それらの根本とは何か?
何が、一人の人間を、殺生させたり、偸盗させたり、邪淫させたりするのか?
それらの根本は、貪・瞋・痴である。
故に不善業を為すとき、我々はどのような動力が、我々をそのようになさしめているのかを、理解する必要がある。
ひとたび不善業をなしたならば、それは業力を残す。業力がひとたび熟すならば、その果報が生じる。それはたとえば、四悪道に生まれる等の。
同様に、我々は、また善業を為す事もある。
例えば布施、持戒、聴経、功徳の回向など等。
では、どのような因と縁が我々をして、善業をなさしめるのか?
その根本は何か?
それは無貪・無瞋・無痴である。
我々が善業を為すとき、それは善の果報を齎すが、しかし、善業もまた、我々の輪廻を引き延ばす(+力がある)。
故に、不善業だけが、我々の輪廻を長引かせるだけでなく、世間的善業もまた、我々の輪廻を長引かせるのである。
この六種類の因ーー善と不善は、我々の各種の性格と命運を塑性する原動力となる。
何に対しても喜ぶ人は、貪の性格が強く、怒り易い人は、瞋の性格が強い。
また、痴の力が強い人もいれば、智慧の力が強い人もいる。
たとえば、布施は、己自身の持っているものを他人に分け与えようとする行為で、自分自身の所有物に執着しないという事であるが、これは無貪である。
もし、我々が長期間布施を続けるならば、不断の過程において無形の内に、我々自身の、無貪の性格を、塑性している事になる。
ある種の人々にとっては布施は困難である。
というのも、彼には貪と執着の性格があるが故に;
ある種の人々にとっては、布施は容易である。
というのも、この長い輪廻の過程の中において、彼はすでに、無貪の性格を塑性したが故に。
(1-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>