南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

飛び入り翻訳~『24縁発趣論』1-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

故に、我々は、己の習気を改善しようとするならば、先に、己自身の性格が、貪が重いのか、瞋が重いのか、痴が重いのか、を理解しなければならない。

その後において、我々は己自身の欠点に応じて、それを糺さなければならない。

たとえば、自分が、瞋根の強い人でありながら、更に瞋恚を自由放任にして、糺す事をしなければ、それはちょうど山から転げ落ちる雪だるまのように、転がれば転がる程大きくなり、その後に、瞋根を取り除こうとしても、大いに困難となる。

瞋恚の対処方法は「慈愛」である。

常に慈愛を修習するーー

「私(+の心)は、敵意から遠く離れますように、

一切の衆生の平安と幸福を願い、

一切の衆生の身・心の苦痛からの遠離を願う」

という願いは、我々の瞋恚の心を退治することができる。

貪を退治する為には、布施をするだけでなく、欲愛、すなわち感官の感受等も、遠離しなければならない。

痴を退治する為には、仏法を聞かねばならない。仏法を聞いた後に初めて、我々は何が善で、何が不善であるか、何をしなければならず、何をしてはいけないかを、知ることができる。

もし、仏法を聞かないのであれば、我々は、我々自身の限界のある智慧でもって、善悪の区別をつけるのは難しい。

しかし、仏法を聞いた後であっても、我々は、聞いた法に関して、よく思惟しなければならず、なんでもかんでもそのまま、受け入れてはならない。

というのも、もし聞いたのが邪法であり、かつ、己自身がそれに対して、厳しく省察・審査しないのであれば、岐路に迷う事がありるが故に。

そうであるから、法を聞いた後、智慧をもって省察しなければならない。

もし、(+聞いた法が)正しいならば、我々はこれに依って、円満成就するまで、修行しなければならない。

仏法を聞く事、思惟する事、修行する事は、智慧を育てる近道である。

(1-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

ない。るならば、