<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
故に、我々は、己の習気を改善しようとするならば、先に、己自身の性格が、貪が重いのか、瞋が重いのか、痴が重いのか、を理解しなければならない。
その後において、我々は己自身の欠点に応じて、それを糺さなければならない。
たとえば、自分が、瞋根の強い人でありながら、更に瞋恚を自由放任にして、糺す事をしなければ、それはちょうど山から転げ落ちる雪だるまのように、転がれば転がる程大きくなり、その後に、瞋根を取り除こうとしても、大いに困難となる。
瞋恚の対処方法は「慈愛」である。
常に慈愛を修習するーー
「私(+の心)は、敵意から遠く離れますように、
一切の衆生の平安と幸福を願い、
一切の衆生の身・心の苦痛からの遠離を願う」
という願いは、我々の瞋恚の心を退治することができる。
貪を退治する為には、布施をするだけでなく、欲愛、すなわち感官の感受等も、遠離しなければならない。
痴を退治する為には、仏法を聞かねばならない。仏法を聞いた後に初めて、我々は何が善で、何が不善であるか、何をしなければならず、何をしてはいけないかを、知ることができる。
もし、仏法を聞かないのであれば、我々は、我々自身の限界のある智慧でもって、善悪の区別をつけるのは難しい。
しかし、仏法を聞いた後であっても、我々は、聞いた法に関して、よく思惟しなければならず、なんでもかんでもそのまま、受け入れてはならない。
というのも、もし聞いたのが邪法であり、かつ、己自身がそれに対して、厳しく省察・審査しないのであれば、岐路に迷う事がありるが故に。
そうであるから、法を聞いた後、智慧をもって省察しなければならない。
もし、(+聞いた法が)正しいならば、我々はこれに依って、円満成就するまで、修行しなければならない。
仏法を聞く事、思惟する事、修行する事は、智慧を育てる近道である。
(1-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
ない。るならば、