<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
先に果報結生心について説明する。
我々は、一人の、禅の修行者の例を、見てみようと思う。
彼は、前の一世(=前世)を思い出すことができる。
彼は、人に飼われた一頭の豚で、緬甸(=ミャンマー)の小さな農場に、住んでいた。
彼の主人は毎日、伝統的な習慣に従って、托鉢の僧人に食べ物を供養していたが、想像もできない事であるが、驚くべきことに、この豚は、主人の供養に随喜する事ができたのである。
臨終の時、他人の善業に対して随喜する事のできる慣行業が熟したため、この豚の臨死意門心路過程に、趣相が顕現した。
彼は、臨死意門心路過程の中において、母親の子宮の赤い色が、見えた。
その意味は、人間に生まれ変わろうとしている、という事である。
彼の心は、しっかりと、この趣相を掴み、この過程が発生しているさなかに、潜在している所の”無明”が、彼をして盲目にさせ、その事によって、彼は、新しい生命の内にある禍を、知る事ができなかった。
故に、”渇愛”によって、新しい生命に対して、強烈な執着が生じた。
臨死意門心路過程が終息すると、二つの彼所縁及び有分心は、発生する事もあれば、発生しない事もある。
その後、死亡心(cuticitta)が生起するが、それは一期の生命の最後の心であり、死亡の作業を執り行う。
死亡心の滅尽するに従って、命根もまた切断される。
一たび命根が切断されると、一期の生命は、正式に死を宣告される。
しかし、潜在的な業力は、いまだ消失していない為に、無明と渇愛(因と縁)の力は、心識をば、前へ進ませ、その為、業行(異刹那業縁)は、結生心(異熟縁)を形成する。
死亡心が滅尽した後、間断を入れず、無間縁を通して、次の世の結生心が、即刻、人的世間において生起する。
(+その時)臨終の時に熟したものと同じ善業に基づいて、赤色を目標として縁に取るが、この善業は、いまだ断じ除かれていない所の、無明と渇愛によって突き進むのである。
こうしたことから、今生の第一番目の心、すなわち、結生心であるが、それは、前世の業行の直接の果報であるという事になるのである。
(14-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>