<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
■5、慧根
慧根は、目標の無常・苦・無我を如実に知る(+能力の事)を言う。
それは、真正なる善知識を識別し、真なる法と偽の法の別を見極め、善と悪を区分する能力を、含む。
生命が不如意な事柄に遭遇する時、智者はその智慧でもって、コントロールの力ーー如理作意を発揮して、善法である所の、縁生法の生起を支えることができる。
以下の小サーマネラ(=小沙弥)の物語が、それを説明してくれる:
七歳の男の子が、父親の懇願により出家して、小サーマネラになった。
剃髪する前に、男の子は、先に、観禅の指導を受けた。
剃髪する時、彼は観禅(+の目標)に専注し、この観禅と、前世の善業のおかげで、剃髪した後、聖果を得た。
その後、彼の戒師ーーティッサ尊者が、彼と共に、仏陀に礼拝する為に、サーワッティの町に出かけた。
途中、彼らは、ある村の精舎で一泊した。
尊者が入眠した後、小サーマネラは、尊者の傍らにいて坐禅し、明け方少し眠った。
二日目の朝、ティッサ尊者は、小サーマネラを起そうと思って、扇子を投げた。
不幸な事に、扇子の柄が、小サーマネラの目を打ち、目が見えなくなった。
小サーマネラは、片手で傷ついた目を押さえて、水を汲んで来て、ティッサ尊者に洗顔してもらい、ついでに、床も拭いておこうと思った。
彼が尊者に片手で水を差しだした所、尊者は彼に注意した。
他人に奉仕する時は、両手で行うべきであり、片手ではいけない、と。
その時、尊者は初めて、己自身の過失によって、小サーマネラが、失明している事に気が付いた。
尊者は、刹那に、小サーマネラは、高貴な人物である事を悟って、自分を非常に恥ずかしく思い、その場で土下座し、許しを乞うた。
小サーマネラは、彼に優しく言った。
この事は尊者の過失でもなく、己の過失でもない。これは輪廻の過失である。故に、尊者はこのことで悲しむ必要はない、と。
小サーマネラは、己の慧根によって、相応する名法を導いて、輪廻の禍を思惟し、善法を生起させる事ができた。
Vipassanaを修習する時、慧根は、そのコントロール力を発揮し、その俱生名法が、目標における「無常・苦・無我」を、専注できるようにする。
(17-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>