<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
■2、精進根
精進根が生起する時、それは、その他の名色法をコントロールして、(+全体の)指導者となる。
仏陀の時代、ある一群の比丘たちが、森の中に入って修行していた。
彼らの規定は3つあって、それは、どのような事が発生しても、戒を誦する日以外は、各々各自で修行して、顔もあわさないし、話もしない、というものであった。
その時期、その森では、虎が出没していた。
ある日、虎が一人の比丘を、連れ去った。
彼らには、上記三つの取り決めがあった為に、この比丘は、救命の叫び声を、上げなかった。
次の日、再び虎がやってきて、二人目の比丘を連れ去った・・・。
戒を誦する日になって、尊者たちは、比丘の人数が減っている事に気が付き、不思議に思ったが、事情を解明する事ができなかった。
その為彼らは約束した:
「もし、何か危険な事が起こったら、大声を出さねばならない。禁句してはいけない。」
次にまた虎がやってきて、一人の比丘を連れ去ろうとした。
比丘は虎に咬まれたまま、大声で叫んだ
「助けて!助けて!虎だ!虎が来た!」
その他の比丘はそれを聞いて、棒を持って、比丘を救いに向かったが、虎の走るのが速く、比丘たちは、追いつく事ができないので、比丘に向かって言った:
「同修よ。我々は、あなたを救う事が出来ない。あなたは、己自身で、己自身を救いなさい。」
この比丘も覚悟した:
「私にはもはや、死ぬ道しか残されていない。
私は、いまだ生きている内に、私に残されたわずかな時間を使って、勇猛果敢に修行する事ができたならば、臨終前に阿羅漢を証悟する事が出来るかもしれない。」
こうして、彼は精進力でもって、vipassanaを修して、無常・苦・無我を観照した。
虎が、彼の心臓を食べようとした時、彼は阿羅漢を証悟したのである。
精進根が生起する時、それは、その他の名色法をコントロールして、目的地へ到達せしめる力を、持つ。
精進根は、定根とバランスを保たねばならない。
禅の修行において、精進が強すぎると、掉挙が生じる。
たとえば、安般念の修習において、多くの人々は、まるで戦いに行くかのように、全身が緊張している。
その結果、瞬く間に鼻が硬直し、頭が膨張し(+て不具合が生じるが)、これは避けるべきである。
呼吸は微細になる為、修行者の心は柔軟でなければならず、修行者は、最もリラックスした状況の下で、呼吸を観じなければならない。
このようにして初めて、両者は協調・調和することができる。
弓で矢を引くように、目標物の距離は近いのであるから、軽く撃てばよいのであって、もし、あまりに力を用い過ぎれば、矢は目標を離れてしまうであろう。
■3、念根
四念処の修習をする時、身・心において生起しているすべての現象について、覚知する必要があるが、これらの過程を覚知する時、正念は、<コントロール>という働きをする。
■4、定根
止(サマタ)の修習の過程において、定根は俱生名法の範囲内で、根縁を通して、そのコントロール力でもって、縁生法ーー俱生名法を支える。
たとえば、安般念を修習する時、定は心と心所を統一し、また出入息において、(+心と心所を)コントロールして、それらにおいて、妄念が起きないよう、安定して、動揺しないようにする。
通常、入定した場合、我々には(+外部の)音が聞こえなくなる。
たとえば、仏陀は入定していた時、仏陀の側で500台の牛車が河を渡って、非常に騒がしかったが、彼には何も聞こえなかった(+という事があった)。
(16-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>