もし、精進根が強すぎる時、その他の信、念、定、慧の諸々の根が、勝解(決定)、確立、散乱の防止及び洞察力の育成という、各種の作用を実行する事ができない。故に、過度の精進は、心をして平静に、似相に専注する事をできなくしてしまう。
ソーナ(Soṇa Koḷivisa)尊者の例で説明する。
彼は王舎城(Rājagaha)で、仏陀の教えを聞き、信心(=確信)を生じ、父母の同意を得て、出家した。
仏陀に、禅修行の業処を授けてもらった後、彼は寒林(Sītavana)に行って、禅修行に、非常に精進した。
経行の時、彼の足裏が摩損して破れた。彼は横にもならず、睡眠もとらず、これ以上歩行が困難になった時、両手と膝を使って這って修行した。過疎の精進の為に、彼の経行の道は、血で塗られていた。ただ、状況はこの様であっても、彼は何等の成就も得られず、失望するばかりであった。
仏陀は、鷲峰山(Gijjhakūṭa)にいて、彼が失望しているのを知って、彼に会いに行った。
仏陀は、ソーナ尊者に、以下の様な注意を与えた。彼がまだ在家者であった時、琴(vīṇā)を弾いていたことがあるが、もし、琴の弦をきつくはりすぎたり、ゆるすぎたりするならば、美しい音色を奏でることはできない。
唯一、きつくも無く、ゆるくもなく、弦の張り具合がちょうどよい時にのみ、(演奏が)上手くいく。
仏陀は、修行もまた同じことで、精進の度合いが過度である時、その結果は躁動となり、精進の不足は怠惰となる、と教えた。
何度も繰り返し考えて、ソーナ尊者は仏陀の教えから受益し、久しからずして、阿拉漢果を証得した。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>