『阿羅漢向・阿羅漢果』1-10
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
私の禅修行は、この段階において初めて、安定した修行の基礎を、打ち立てる事ができた。
この時以来、私の修行は安定的に進歩しーーその後、後退する事はなかった。
一日過ぎる毎に、私の心は更に安寧と静けさ、平和と集中の度合いを、増していった。
以前より私を悩ませ続けた、修行の浮き沈みによる変動は、跡形もなく消え失せた。
修行が前進するかどうかの懸念は、<今・ここ>の念住によって取り換えられた。
<今・ここ>の念住の力と、過去と未来を妄想する妄念は、全く持って比較する事も無駄であった。
私の生きる中心は、<今・ここ>において--繰り返して念じられる ”仏陀” の黙念の生起と消滅だけとなり、私は、他の一切の事柄に、興味を持つことはなくなった。
遂に私は、過去において、修行に乱れがあったのは、念住を実践する時に、念誦詞という錨に欠けていたためである事を、はっきりと確信した。
以前の私には、禅修行における、専門的に特化した対象がなく、ただただ、内在する覚知という、おおざっぱな感覚に対して、専注していただけなのであり、故に、妄想が侵入するやいなや、簡単に征服されていたのである。
私は一たび、禅の修行の初期段階における正確な方法を知ってから後、誠心誠意、修行に打ち込み、一瞬の失念も、己に許すことはなかった。
早朝目が覚めてから後、夜眠るまでの間、私は時々刻々、目覚めた心で修行した。
これは一つの、非常に厳格なテストであり、比類なき専注と精進が必要とされた為、私は、念住に毛筋一本程のゆるみも出ないよう、精進した。
それほどまでに ”仏陀” に、深く専心した為に、私は、己の身辺の出来事に、全く留意する事はなかった。
日常生活は、何とはなくに過ぎて行ったが、しかし、”仏陀” だけは、はっきりと、専注し続けた。
私における、念誦詞に対する決意は絶対的であり、この堅固とした基礎は、私の修行を支えてくれ、心の安寧と静けさ、集中力は、全くもって動揺する事はなくなり、それは、大山のように、安定して強大になった。
(1-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>