<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
私は、毎日このように修行し、”仏陀” をして、始終<今・ここ>の覚知と調和せしめ、共鳴せしめるようにした。
瞬く間に、私は安寧、静けさ、定が、心からーー(+すなわち)意識が知っている所の根本的特性ーーの中から生起する事象を、見る事が出来るようになった。
この段階において、私は、心の非常に微細で精妙なる本質を見始めたが、私が益々 ”仏陀” を内在化させればさせる程、心は益々細微になり、最後には ”仏陀”の微細と、心の微細が、お互いに融合し合って一体化し、それは能知(=知る者。以下同様)の核心となった。
私は ”仏陀” を、心の微細な本質と分け隔てる事ができなくて、どのように試してみても、私は ”仏陀” という詞を、心の中に出現させる事ができなかった。
一所懸命に努力した為に、”仏陀” という詞は、それほどに深く私の心に合一し、その為に ”仏陀” 自体は、私の覚知の中に出現する事がなくなったのである。
心はそれほどに、安寧で静かで定まっており、それほど微細であり、まったく何もなくからっぽで、”仏陀” でさえも、ここにおいて共鳴した。
この禅の修行の境地は、上で述べた、呼吸が消失する所の境地と、同じ様であった。
この種の状況が発生すると、私はどのようにすれば良いのか、分からなくなった。
これより以前、私は修行の過程全体において、しっかりと ”仏陀” を保持してさえいれば、よいのだと思っていたのだが、今では ”仏陀” は出現せず、私は、何に専注すればよいのか分からなくなってしまったのである。
それは、消失してしまった。
私はどのようにか努力して、この専注点を見つけ出そうとしたものの、どうしても見つける事ができず、私は困惑の中に落ち込んだ。
残されたものは、心の微細な能知の特性であり、一つの純潔な自然な覚知であり、光明・明晰さであり、この覚知の内においては、縁の対象とする事のできる、何等の実体のあるものはなかった。
私は意識ーー知っている(+ことそのもの)ーーそれほどまでに高度で深くまた、微細である所の境地に到達したならば、どのようなものも、心の覚知の領域に進入する事はできないことを、察知した。
私に残された唯一の選択:
”仏陀” を見失ってしまった為に、私は己の注意力を、<今・ここ>において、どこにもあって、存在しない所のない明確な覚知の上に、置くより方法はなかった。
意識は消失していないーー否ーーそれは一切に浸透していた。
その直前に ”仏陀” に専注していた覚知は、いまではしっかりと、この安寧と静けさが集中する所の心の中の、極めて微細な覚知の上にあった。
私の注意力は安定的に、この微細な能知の核心の内に留まり続けたーーそれが徐々に、もはや顕著でなくなって、正常な意識が回復するまで、続いたのである。
正常な意識が戻るや否や、”仏陀” はまた再び顕現し、私はすばやく、再びこの念誦詞を持し念じることに転じた。
久しからずして、私の日常の修行は新しい段階に入った:
私は ”仏陀” に専注して、意識が心の能知の特性の中に進入すると、一つの明晰な、光明なる境地に到達し、次に、私は、この微細な覚知を全力で専注したが、それは、その後に正常な意識が回復するまで続いた。
その後に、私は更に ”仏陀” を持し念ずることを繰り返す修行に精進した。
(1-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>