現在、『阿羅漢向・阿羅漢果』の翻訳は、27ページまで
来ました。全部で100頁ありますので、1/3 辺りですね。
アチャン・マハー・ブーワの『阿羅漢向・阿羅漢果』を
翻訳していて「ああ、やっぱり」と安堵しました。
では、己とは何か?
五蘊以外に、己というものがあるのかどうか?
(五蘊とは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)
ここで、注意して頂きたいのは、パーリ語のアナッターが漢語で「無我」と翻訳された為に、「私というものはないのだ」「私は存在しないのだ」と、「無我」を直訳的に理解している人を、時々、見受ける事です。
上記の人々は、涅槃とは「私が完全に消滅してしまう事」だと思っているのです。
アチャン・マハー・ブーワは、言います。
心の、能知という根本的特性は、永遠に消滅しない、と。
生前、中村元博士は、アナッターを「無我」と訳してはいけない。アナッターは「非我」と訳するべきである、と言い続けました。
「非我」は、これは私ではない、これは私のものではないと、あらゆる存在、あらゆる所有を否定して行った後、唯一、能知は残るが故に「非我」である、という訳です。
私も、非我説を取ります(注1)。「無我」という漢訳語は(直訳的に理解した場合)、能知までをも否定してしまい、涅槃をまったくの虚無として、説明する事になってしまうからです。
シャンカラが、仏教は虚無主義であると批判したのは、まさにこの点にありました。
アチャン・マハー・ブーワの言葉
『能知、知る者、すなわち心の、知るという根本特性は、永遠に存在して、消滅する事はない』を
再確認したいと思います。
(注1)縁起の現象を<ものごとの生・住・滅に介在する主宰者は存在しない>と言う時、それを「無我」とも言い換え得る事に、反対しません。
追記:
1)<能知>は、知る者。その対語としての<所知>は、知られる者と訳され、仏教における非常に重要な用語です。
2)インドの宗教家、哲学者が「汝はソレである」という時、真我を指して言っているのか、能知を指して言っているのか、注意を払う必要があると思います。
仏陀の生まれる300年程前に、すでに「汝はソレである」と宣言していた哲学者がいました。その名は、ヤージュニャーバルキア・・・興味のある方は、ご自分でお調べ下さい。
3)私が仏教書を翻訳する時、全編読み終わってから翻訳に取り組んでいるのではないです。だいたい、題を見て、最初の一ページくらいを読んで、翻訳の可否を決めます。
もし全編読んでみて、後半に難しい内容が出てきますと、萎縮してしまいますので、あえて全編は読まず、
<なんとかは蛇に怖じず・・・>の精神で、翻訳しております。これを勇猛果敢といいますか、馬鹿の一徹といいますか・・・。
翻訳を進めていく内に、この著書の内容は、私の見解と正反対であると思える時は、翻訳を中止する事もあります。少々の違いでしたら、<翻訳者注>で、私の意見を開陳して、翻訳は続けます。私の、翻訳におけるスタンスを、述べてみました。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>