<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(P15,16 )
禅師:
あなたは、覚知(=awareness。以下同様)のある状態と覚知のない状態の、二者の区別が、分かっていますか?
修行者:
私は覚知のある時は、何が生じているかを知っていて、どのように処理するのがよいかも、分かります。
禅師:
あなたは、自分自身の覚知に対して、どれほど理解していますか?
覚知を保持する事は、あなたにとってどのような利益がありますか?
これらの疑問に対して、あなた自身が、その答案を見つけ出さねばなりません。あなたは経験の中から不断に、学ばなければなりません。
修行する時、あなたがこの事に関して興味を持つならば、あなたは益々、その事柄に対して、明瞭な理解を得るでしょう。
あなたの(+仏道に対する)興味が大きくなったならば、あなたは更に積極的に修行するでしょう。
ものごとへの理解は、修行の深さに従って、深まって行きますーー良性循環が始まるのです。
この過程(+すなわち心の成長の過程)は、時間の積み重ねを必要とします。
あなたは時間をかけて、己自身の覚知を強大に変化せしめ、(+物事への)理解のレベルを深めなければなりません。
あなたが修行に興味を感じないのは、あなたは学んでいるのではなくて、結果・成果がタナボタで落ちて来るのを期待しているからです。
あなたは、己自身が取り組んでいる事柄(=仕事や修行)の中から学ばなければなりません。
結果や成績、成果を期待して修行しては、なりません。
あなたは禅の修行の過程を観察し、<今・ここ>における事柄に対して覚知を保持し、その中から学ばなければなりません。(中略)
あなたはどのようにして失念しますか?
どのようにして、覚知が戻ってきますか?
その体験・状況が良いものであれ、悪いものであれ、興味深く観察する必要があります。
どのような体験もみな<法>なのです。
(+あなたが体験する)状況とはまさに、あるがままであり、”よい” とか ”悪い” とかは、あなたの勝手な判断にすぎません。
もし、あなたに正見があるならば、あなたは発生している事柄の一切を、如実に受け入れる事でしょう。
(Bにつづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
<《Awareness Alone is not Enough》より改題。抜粋翻訳/
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>