<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(原文P 38)
当該の経の中において、仏陀は、以下の様に解説する:
”比丘たちよ。
何に対して証知しない、遍知しない、離棄しない、捨断しない者は、苦を滅尽することができないのか?
比丘たちよ。
眼に対して証知しない、遍知しない、離棄しない、捨断しない者は、苦を滅尽することができない。
色・・・眼識・・・眼触・・・この眼識の縁において受が生じ、あるいは楽、あるいは苦、あるいは不苦不楽である時、これに対して証知しない、遍知しない、離棄しない、捨断しない者は、苦を滅尽することができない。”
仏陀はまた、同様の方法を用いて、
耳、音、耳識、耳触、耳触の縁によりて生じた所の受、
鼻、香、鼻識、鼻触、鼻触の縁によりて生じた所の受、
舌、味、舌識、舌触、舌触の縁によりて生じた所の受、
身、触、身識、身触、身触の縁によりて生じた所の受、
意、法、意識、意触、意触の縁によりて生じた所の受
に対して証知しない、遍知しない、離棄しない、捨断しない者は、苦を滅尽することができないと、説明する。
また次に《第二不遍知經》
(Dutiya aparijānana Sutta)の中において、仏陀は六内処、六外処、六識及びそれぞれ個別の識によって認識される所の法、例えば眼識の認識する事のできる法
(cakkhuviññāṇaviññātabbā dhammā)しか列挙していない。
義註では、ここにおいて、それは色(gahitrrūpameva)をのみ指すか、または視野に入るもの(āpāthagataṃ)を指しており、(+それによって)視野に入らないもの(anāpāthagataṃ)と、対比させているのである(+と解説する)。
”しかし、ここいおいては、眼識と相応する所の三種類の蘊(idha pana cakkhuviññāṇasampayuttā tayo khandhā)を指しているのである。”
これはすなわち、眼識を遍知する時、それに相応する心所ーー受、想、行蘊ーーもまた遍知されなければならない、という事を述べているのである。
(3-58につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>