本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-15
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
早く持戒し、禅の修行を、しようではないか。
縁起の法の修行ができて、己自身の過去世はどの様な生命で、どの様な生活をしていて、どの様に死んだのかを知る事ができたなら;
これから先、己自身がどの様に結生し、何度生きれば、輪廻を終息させることができるのかを、知りさえすれば、死ぬことを恐れる必要が、なくなる。
というのも、過去世の、一つ毎の命が、どの様に生き、どの様に死んだのかを知ったならば;
未来において、煩悩があるならば、必ず生、死があることが分かる;
そして、この一世もまた、短い(+間の)過客に過ぎず、すぐにでも死ぬ命である事が、分かる。
その上、私自身だけではなく、私の愛する、すべての家族、友人も皆同じであって、我々は、ただ輪廻の内にある、過客に過ぎない。
お互いがお互いに、過客に過ぎないのに、お互いに執着し合うなど、どれほど愚かな事であろうか?
故に、早く持戒し、禅の修行をしようではないか。
この種の善業を持って初めて、未来において、良き福徳の報いが、得られる。
こうしたことから、我々は、毎日、八関斎戒を受持するべきであって、軽軽に戒を捨ててはならない。
この様に、善と悪を区別することの出来る智慧を持って初めて、人間であると言える。
善悪を区別する智慧を持たない者は、人間とは呼べない。
少なくとも一週間に一度は、八関斎戒を受持する事。
(+あなた方)華人は、縁起の修習をする時、己自身の過去世を検査すると、多くの人々が、布施の功徳を擁しているが、禅の修行は、非常に少ない(+事が分かる)。
たまたま、人間として生まれる事があり、その時に、たまに布施をする(+というパターンが多い)。
華人は、布施する事が、習慣になっている。
故に、比較的福徳の果報に恵まれ、輪廻の内においても、比較的困難が少ない。
しかし、輪廻の中において、人間であり続けても、何等の意義も、ないのである。
(16につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>