<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(三)無所有処
三番目の無色界禅は、無所有処禅である。
それは、空無辺処禅心の不存在を対象と(+して瞑想)する。
空無辺処禅心とは、識無辺処禅が縁として取った所縁である。
もし、無所有処禅を修行したいと思うならば、あなたは、識無辺処禅の欠点を思惟する;
識無辺処禅は、空無辺処禅に近く、識無辺処禅は、無所有処禅の静けさには敵わない。
識無辺処禅の欠点を見て、また、それを厭離した後、あなたは、無所有処禅の静けさの本質を、思惟する。
その後に、あなたは、空無辺処禅心の不存在に、専注する。
この種の状況においては、二種類の心がある:
空無辺処禅心(ākāsānañcāyatana jhāna citta)と、識無辺処禅心(viññanañcāyatana jhāna citta)である。
そして、一個の心識刹那(注11)の中には、二つの心が同時に存出現することができないので、空無辺処禅心が存在する時、識無辺処禅心は、存在できない。反対もまた然りである。
先ほど、識無辺処禅に入ったばかりの時の、空無辺処禅心の不存在に専注して、それを「無所有、無所有」または「不存在、不存在」と黙然する。
(+瞑想の対象に心を)投入するという心態でもって、当該の相を「無所有、無所有」と、引き続き専注する。
この様に専注するならば、あなたは、五蓋が降伏され、かつ、近行定に到達したのを、発見するであろう。
ジャーナを証得するまで、引き続き絶え間なく専注し、その後に、五自在を修行する。
これが、第三番目の無色界禅、すなわち、無所有処禅である。
(注11)心識刹那:心が生起して、消滅するまでの時間。心識刹那は極端に迅速である;一つの稲妻、または一つの瞬きの時間の内に、10億個の心識刹那が生・滅する。一個の心識刹那の中には三時がある。すなわち、心の生じる時、住むとき(=心が維持される時)、滅する時である。
(3‐65につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<本雅難陀尊者著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>