南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」9-1(283/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅵ 皮帯(=革ベルト、皮の首輪、以下同様)束縛經(一)

(Gaddulabaddha Sutta 1)

《皮帯束縛經》は、二部存在している。この二部とも、我々は研究したいと思う。

第一部の《皮帯束縛經》の經文は、以下の様に始まる:

ある時、世尊が舎衛城に留まっていた。

その時、世尊は比丘たちに述べた:

「比丘たちよ。

生死輪廻の源は知ることができない。

生死輪廻の中において、何度となく流転する衆生の、その、無明によって覆われ、愛欲によって束縛される起点は、知る事が難しい。」

業力は、唯一、無明(avijjā)と愛欲(taṇhā)の支えの下、初めて結果を生じる;

もし、無明と愛欲がないならば、業力は、何等の果報も生じることができない。

故に、仏陀はこの經の中において、生死輪廻(saṁsāra)の主因は、無明と愛欲であると、教導して言う。

「無明」は、真実に男性、女性などが存在していると、誤って認識しることである。

仏陀の教えに基づけば、究極名色法(精神と物質)だけが存在しており、真実の弾性、女性などは存在しないのである。

もし、人が以下の様に思ったとする:

「この人は男性、女性、男児、女児・・・」

この種の錯覚は、無明である。

もし、系統的に四界分別観を修行するならば、名前を色聚と呼ぶ所の微粒子を見ることができる。

この種の色聚の微粒子を分析した後、合計28種類の色法(rūpa)を照見することができる。またこの他に、色法(物質現象)に依存して生起する所の名法(精神現象)も存在している。

こうしたことから、究極諦(勝義諦)に基づいて言えば、ただ名色法のみが存在しているのである。

恒常なる弾性、女性、男児、女児などは存在しておら、故に男性が、女性が、真実に存在していると思う事は、すなわち無明である。

無明の故に、これらの対象に執着する所の愛欲は、無明に依存して生起するのだと言える。

無明と愛欲の支援の下、熟した業力は、善または悪の果報を、結成することができる。

これが、なぜ仏陀が、当該の經の中において、以下の様にいうのか、という理由である:

「生死輪廻の中において、幾度となく流転する衆生は、無明に覆われ、愛欲に覆われて束縛される起点を知るのが難しい」

仏陀は続けて開示して言う:

「比丘たちよ。

茫洋たる大海には、涸れあがる時があり、水が一滴も存在しない時があるが、しかし、私は言うが、無明に覆われ、愛欲に束縛されて生死輪廻の中にいて、幾度となく流転する衆生、彼らの痛苦は尽きる時がない。」

仏教の道理に基づけば、世界は最後には、火、水、または風によって壊滅させられる、という。

仏陀は、当該の經の中において、世界が火によって壊滅する状況を描写している。

その時、益々多くの太陽が出現する。

通常、四悪道の衆生は、死亡すると、人間界または欲界天に生まれ変わる。

天空に五個の太陽が出現する時、茫洋たる大海は、涸れあがり、一滴の水もなくなってしまう。

その時、通常は、欲界の衆生は死亡してしまう;

彼らは死亡する前に修行の精進して、ジャーナに到達する。

ジャーナに依存するが故に、彼らは梵天界に生まれ変わる。

こうしたことから、仏陀は開示して、その時になってもなお、生死輪廻が終わることはない(+と言う)ーー

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

六個目の太陽が出現する時、山々の王ーー須弥山ーーもまた焼け、崩壊して、微塵も存在しなくなってしまう。

その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。

故に、仏陀は以下の様に開示して言うする:

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

その後、仏陀は開示して言う:

「比丘たちよ。

広々とした大地は、焼かれ、破壊されて寸土も存在しなくなる。

しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

 七個目の太陽が出現する時、広々とした大地もまた焼かれ、崩壊して、寸土も存在しなくなってしまう。

その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。

故に、仏陀は以下の様に開示して言う:

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

その後、仏陀は比喩でもって開示して言う:

「比丘たちよ。

 ちょうど皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛される犬が、硬い切り株または柱につながれる時、彼はただ、切り株の周りか、柱の周りをぐるぐると回るしか方法がない。

同様に、比丘たちよ。

法を聞いたことのない凡夫は、聖者に会ったことがなく、聖者の法(四聖諦)において、善くて巧みに調伏したことがない;

善士に会ったことがなく、善士の法において、善くて巧みに調伏したことがない;彼は思う:

1、色は私である、または

2、私は色である、または

3、色は私の中にある、または

4、私は色の中にある。

彼は受は我であると思い・・・彼は想を我であると思い・・・彼は行を我であると思い・・・彼は識を我であると思い・・・または我には識があると思うかまたは、識が我の中にあると思うか、または我が識の中にあると思う。

彼は色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り回って、流転する。

彼が、その中において常に奔走し、流転する時、彼は色から離脱することができず、受から離脱することができず、想から離脱することができず、行から離脱することができず、識から離脱することができない。

私は言う。

彼は、生、老、死から解脱することができず、愁、悲、苦、憂、悩から解脱することができず、痛苦から解脱することができない。」

(9-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>