<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
Ⅵ 皮帯(=革ベルト、皮の首輪、以下同様)束縛經(一)
(Gaddulabaddha Sutta 1)
《皮帯束縛經》は、二部存在している。この二部とも、我々は研究したいと思う。
第一部の《皮帯束縛經》の經文は、以下の様に始まる:
ある時、世尊が舎衛城に留まっていた。
その時、世尊は比丘たちに述べた:
「比丘たちよ。
生死輪廻の源は知ることができない。
生死輪廻の中において、何度となく流転する衆生の、その、無明によって覆われ、愛欲によって束縛される起点は、知る事が難しい。」
業力は、唯一、無明(avijjā)と愛欲(taṇhā)の支えの下、初めて結果を生じる;
もし、無明と愛欲がないならば、業力は、何等の果報も生じることができない。
故に、仏陀はこの經の中において、生死輪廻(saṁsāra)の主因は、無明と愛欲であると、教導して言う。
「無明」は、真実に男性、女性などが存在していると、誤って認識しることである。
仏陀の教えに基づけば、究極名色法(精神と物質)だけが存在しており、真実の弾性、女性などは存在しないのである。
もし、人が以下の様に思ったとする:
「この人は男性、女性、男児、女児・・・」
この種の錯覚は、無明である。
もし、系統的に四界分別観を修行するならば、名前を色聚と呼ぶ所の微粒子を見ることができる。
この種の色聚の微粒子を分析した後、合計28種類の色法(rūpa)を照見することができる。またこの他に、色法(物質現象)に依存して生起する所の名法(精神現象)も存在している。
こうしたことから、究極諦(勝義諦)に基づいて言えば、ただ名色法のみが存在しているのである。
恒常なる弾性、女性、男児、女児などは存在しておら、故に男性が、女性が、真実に存在していると思う事は、すなわち無明である。
無明の故に、これらの対象に執着する所の愛欲は、無明に依存して生起するのだと言える。
無明と愛欲の支援の下、熟した業力は、善または悪の果報を、結成することができる。
これが、なぜ仏陀が、当該の經の中において、以下の様にいうのか、という理由である:
「生死輪廻の中において、幾度となく流転する衆生は、無明に覆われ、愛欲に覆われて束縛される起点を知るのが難しい」
仏陀は続けて開示して言う:
「比丘たちよ。
茫洋たる大海には、涸れあがる時があり、水が一滴も存在しない時があるが、しかし、私は言うが、無明に覆われ、愛欲に束縛されて生死輪廻の中にいて、幾度となく流転する衆生、彼らの痛苦は尽きる時がない。」
仏教の道理に基づけば、世界は最後には、火、水、または風によって壊滅させられる、という。
仏陀は、当該の經の中において、世界が火によって壊滅する状況を描写している。
その時、益々多くの太陽が出現する。
通常、四悪道の衆生は、死亡すると、人間界または欲界天に生まれ変わる。
天空に五個の太陽が出現する時、茫洋たる大海は、涸れあがり、一滴の水もなくなってしまう。
その時、通常は、欲界の衆生は死亡してしまう;
彼らは死亡する前に修行の精進して、ジャーナに到達する。
ジャーナに依存するが故に、彼らは梵天界に生まれ変わる。
こうしたことから、仏陀は開示して、その時になってもなお、生死輪廻が終わることはない(+と言う)ーー
「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。
六個目の太陽が出現する時、山々の王ーー須弥山ーーもまた焼け、崩壊して、微塵も存在しなくなってしまう。
その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。
故に、仏陀は以下の様に開示して言うする:
「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。
その後、仏陀は開示して言う:
「比丘たちよ。
広々とした大地は、焼かれ、破壊されて寸土も存在しなくなる。
しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。
七個目の太陽が出現する時、広々とした大地もまた焼かれ、崩壊して、寸土も存在しなくなってしまう。
その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。
故に、仏陀は以下の様に開示して言う:
「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。
その後、仏陀は比喩でもって開示して言う:
「比丘たちよ。
ちょうど皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛される犬が、硬い切り株または柱につながれる時、彼はただ、切り株の周りか、柱の周りをぐるぐると回るしか方法がない。
同様に、比丘たちよ。
法を聞いたことのない凡夫は、聖者に会ったことがなく、聖者の法(四聖諦)において、善くて巧みに調伏したことがない;
善士に会ったことがなく、善士の法において、善くて巧みに調伏したことがない;彼は思う:
1、色は私である、または
2、私は色である、または
3、色は私の中にある、または
4、私は色の中にある。
彼は受は我であると思い・・・彼は想を我であると思い・・・彼は行を我であると思い・・・彼は識を我であると思い・・・または我には識があると思うかまたは、識が我の中にあると思うか、または我が識の中にあると思う。
彼は色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り回って、流転する。
彼が、その中において常に奔走し、流転する時、彼は色から離脱することができず、受から離脱することができず、想から離脱することができず、行から離脱することができず、識から離脱することができない。
私は言う。
彼は、生、老、死から解脱することができず、愁、悲、苦、憂、悩から解脱することができず、痛苦から解脱することができない。」
(9-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>