<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
a)無明から老・死までが、一つの縁起の法である。
その後の、「憂い、悲しみ、苦悩」等々は、踵を接して、その直後に続くものである。
上記は、生が有れば、苦がある事を表しているーー第一聖諦。
この種の、現実的な縁起の法は、生死輪廻と言うーー「(車)輪を有する所の(輪廻)すなわち、有輪」である。
一人の人間が、いまだ生死輪廻の中にある時、この(車)輪は、止まる事がない。
b)項目
1、無明とは、すなわち四聖諦を体験・証悟していない事。
2、ここでの<行>とは、五蘊の中の<行>ではなく、前の生で累積した所の、業によって造りだされる生(=生まれる事)を意味する。
三種類の行がある:善行、悪行、不動行(最高の無色界定)。
3、識は「結生識」の事。
4、名色は、三個の心所法:受、想、思に、業による報身(業によって生じた色身)を加えたもの。
5、六入は、眼、耳など等。
6、触は、心所が心王を導いて、六塵と接触せしめる事。
7、受は、苦受、楽受など等を認識する心所の事。
8、愛は、六根が作用する時に生起する貪心所の事。
9、取は、愛の貪心所によって引き起こされた所の、更に強い貪心所の事。
10、有は、業有または、善または悪の業が存在している事。
11、生ーー五蘊または身・心の事。
12、生があれば老・死がある。
仏陀が、縁起の法を開陳してくれたので、我々は、実相の真理(自然的な真実なる状態)を理解する事ができるし、また、縁起の法自体は、因と縁によって生じている事が分かり得る。
縁起の法を理解する目的は、我々をして、身・心の無常・苦・無我を体験・証悟せしめる事である。
無明は、12縁起の一番目の環であるが、しかし、実際には、12縁起の一つの鎖のようであるか、または円環のようであり、始まりもないし、終わりもない。
しかし、無明は、円環全体の首脳なのである。
というのも、無明は煩悩の根源であるが為に。
故に、智慧が、無明を照らし破るという事がすなわち、この鎖を打ち破る唯一の方法なのである。
無明は、病から来ている:
貪の病、有の病、見(=己の見解)の病、痴(=無知)の病ーーただし、この四種類の病は、みな、無明から生じており、いわゆる無明とは、四聖諦への無知を言うのである。
(1-84につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>