Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~無我と空

昨日、法友の方と、ゴータマ仏陀の教えの真髄であります<無我(空)>について、メールでやりとりをしました。

私の<空>の説明が面白い、ブログに書いて欲しいと言うので、以下、<無我>と<空>について書きます。

<無我>と<空>は、同じ物・事の、裏から説明するか表から説明するか、の違いです。

経典の研究者によると、ゴータマ仏陀は<無我>(anatta)を多く使い、<空>(sunnyata)はあまり使わなかったそうですが、後世になると(大乗では)空が多くなり、それがどんどん哲学化していって、本来の意味が理解しにくくなった様に思います。

無我は、中国語の仏教書ではいつも<無我><無我所有>

<無我空>とセットで出てきます。

日本では、我々は無我である、私というものはないのであるから我儘を言ってはならないとか、先の戦争では、私というものはないのであるから、喜んで他人を殺し、自分も死ねと教えました(どこかの教団もこの様に言って、大量殺人をしました)。

同調圧力の強い日本で、悟っていない者に対して、<無我>を<私はいない>と説明すると、如理作意が出来ない大衆によって誤解され、社会に歪が生じる様に思います。

<無我>は、文字面上、私はいない、と理解できますが、身体を構成する所の素粒子(色聚)と心の相互関係を考慮すると、

【身・心の相互依存によって生起する所の現象自体は存在するが、その現象の内において<永久不変の私>というものは存在しない】

【身体の移動という現象(=素粒子の刹那生・滅)はあっても、私(という永遠不変の存在)が移動するのではない】

と理解する方がリアリティーがある様に思います(これが分かるために、相当の修行が必要かもしれませんが。)

そして、中国語の仏教書ではいつも<無我>は<無我所有>と一緒に出てくるのですから<無我所有>とは何か?を理解するとよいでしょう。

これは世の中の事象において、私に所有されるものは何一つもない、という意味です。

心はコロコロ変化して、コントロールするのは難しいですし、身体は20歳で成長を止めて、後は老衰に向かい、死ぬときには自然なる宇宙に返還しなければなりません。

地位や名誉や財産の儚いことは皆様ご存の通りです。

世の中のすべての事象は、縁によって生起していて、縁によって生起するものは、我々は一瞬たりとも、所有する事はできないのです。

<空>ですが、本来<空>と<無我>は同じ意味につかわれていたもので、故に<無我空>という言い方をします。

<無我>は私というものはいない、私に所有されるものは何もない、というニュアンスに傾いていて、<空>は、名詞ですと空っぽ(素粒子が構造上空っぽの様等)、動詞ですと、ニュートラルに戻る、戻す、ニュートラルを維持する、というニュアンスを持ちます。

無我の<我>を永久不変の実質、すなわち<自性>という意味で理解して、<無我>を<自性がない>と理解する時、<空>という言葉もまた<自性がない>というニュアンスを持っている事に気が付いて、<無我>と<空>は同じことを言っているのだと、理解が進みます。

<無我>は名詞的ですが、<空>は動詞として使うと日常生活に役に立ちます。

<空>は、名詞では空っぽまたはニュートラルという意味を持ち、動詞ではニュートラルの状態に戻す、ニュートラルの状態を維持するという意味を持ちます。

安般念の修行が進むと、すべての事象は縁によって生起しており、故に、己の心をニュートラルに戻したり、ニュートラルに維持したりすることができる、と実践的に体験することができます。

心がニュートラルの時、安楽が訪れます。

凡夫の、ニュートラルな心の所縁は世間、すなわち有為法ですが、聖者のニュートラルな心の所縁は無為法(=涅槃、出世間)なのだ、と今の私は、この様に理解しています。

仏法は、口の端にぶら下げて、他者と議論するものではなく、修行し、体験し、自内証する為にあるものです。

<緬甸パオ森林寺院僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>