仮に、ここに一株の芒果(マンゴー)の樹があるとして、今、樹には、実が実っていない。
しかし、いつの日か、ある日、実が結果する。
これは自然法則である。
あなたは、果実を生じせしめる潜在エネルギーは、樹木の中にある、と言うことが出来る。
では、その潜在エネルギーとは、何か?
もし、その樹の葉、枝、樹皮と幹を研究したとしても、我々は、それを見つけだすことはできない。
しかし、見つけられないからといって、それが存在しない、とは言えない。
というのも、いつの日にか、その樹には、実が成るが故に。
同様に、我々は、善業と不善業は、恒常であるとは言えない。我々は、業力は、潜在エネルギーの一種の方式をとって、名色流の中において存在し、かつ、いつの日にか、この業力が熟した時、その果報が生じるのだ、と言うのである。
今、我々は、正性定律(sammatta niyāma)について、説明しようと思う。
我々は、道法と果法は、正性定律に属する、と言う。
しかし、我々は、それらは恒常(nicca)である、とは言わない。
それらは、また無常(anicca)なものである。
しかし、道智の潜在エネルギーは、道、果と涅槃を証悟した人の名色流の中において、保存される。
この種の潜在エネルギーの存在は、正性定律でり、かつ、定律による結果も存在する。
例えば、入流道(Sotāpatti magga)の潜在エネルギーは、入流果(Sotāpatti phala)を生じせしめることができるが、同時に、更なる高度な果位の助縁となる。そして、それは、比較的低いレベルの果位を生じることはない。これもまた定律である。ここいおいて、あなたは以下の事柄を考える必要がある:
阿羅漢を証悟することは決して容易なことではない。あなたは、極めて大きな精進を実践して修行しなければならないし、同時に、堅固な気力もまた必要である。
たとえば、釈迦牟尼菩薩は、彼の最後の一生において、非常に熱心に6年間、修行に精進し、その後、一切知智(Sabbaññuta-ñāṇa)と相応する所の、阿羅漢果を証悟したのであるが、それが如何に困難な事柄であったことか、あなたは想像できるに違いない。<注337>。
こうしたことから、無数の困難を遍歴して、阿羅漢を証悟した後、彼がまた凡夫(puthujjana)に戻ることがあるとしたなら、修行の成果は、どうなるのであろうか?
あなたは、この点を子細に考えてみて下さい。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>