私はもう随分長いこと、安般念(アーナパーナサティ。
出入息念)の訓練を、してきました。
最近、<心を護る>とはどういうことか、が分かってきました。
誰か(例えば、Aさん)に、嫌味を言われた、とします。
私は、一瞬、ドキッとします。
そして、
「私は、Aさんに、嫌味を言われた。」
「私は、Aさんに、意地悪された」
と思って、一日中、不愉快になります。
で、実は、ここがポイント。
実は、<Aさんに嫌味を言われた>のは、私ではなくて、
私の<心>が、その様に受け取った、<だけ>なのですね。
ただし、ここで、
「Aさんは善意で言ったので、あれは嫌味ではない」
というような<論点逸らし>は、なし、です
(この種の<論点逸らし>は、問題の本質を歪めますので、ここでは推奨しません。勿論、人間には、他者の善意を、素直に受け取れない心の癖、という、別種の問題はありますが、それはまた別途)。
「Aさんは、嫌味を言った」
「それを聞いて、私は不愉快である」
という事実、前提に立ち、でも、それは、実は、
<【私】に言ったのではなく>、
<私の心が、その嫌味な言葉に反応しただけ>
であって、己の心を護るためには、その嫌味から、すばやく離れる事・・・すなわち、心が捉えた所の(正確には、心が捉えられた所の)
《いや~~な感じ》
を素早く「放下(手放す)」する事です。
結果、心は即刻、本来の、ニュートラルな状態、穏やかな状態に戻ります。
これが出来るのは、心は無常であり、私とは、無我であるから、です。
安般念をやっていると体得できます。
ゴータマ仏陀も、正等正覚を得た後でも、毎日、安般念は続けていたそうです。
あなたも、おひとつ、如何でしょうか?
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>