般若の独り言~毒矢の喩
先日(2月25日)のブログに、
《安般念で心を護る》という文章をUPしました。
そこでは、悪意のある嫌味を言われた時、己の心を護るのに、安般念は有効である、と書きました。
では、他人は、善意から出発しており、でも、自分にはやはり、どうしても受け入れがたい嫌味、叱責と受け取れる言動をされた時、心理的に、どの様に対処すればよいでしょうか?
これには、ゴータマ仏陀の教え【毒矢の喩】が参考になると思います。
あなたが、どこからか飛んできた毒矢に刺された時、毒矢を抜かないまま
「この矢はどこから飛んできたのか?」
「誰が射たのか?」
「塗ってある毒は、どの様なものか?」
と分析を始め、
「これらの疑問が明らかにならない内は、この毒矢を
抜いてはならぬ」
と言ったならば、あなたはその分析が終わる前に、身体に毒が回って死んでしまう。
大事な事は、【毒矢に対する分析】ではなく、真っ先に【毒矢を抜く事】である、とゴータマ仏陀は言う。
ですから、己の心を護るためには、言われた嫌味が悪意からか、善意からかは分析する必要はなく、
《心を、なるべく早く、ニュートラルな、安らいだ状態に戻す》
のが正解です。
心がニュートラルな状態に戻ると、不思議な事に、悪意から発した嫌味も許せるし(注1)、他人の善意を悪意と誤解した所の、自分の錯覚も許せるものです。
無常と無我を知り、安般念で心を護るのは、自分の為でもあり、他人の為でもあります。
ゴータマ仏陀の教えには一つも無駄がないと、つくづく感心するものです。
(注1)悪口の相手を、心内で、許せたとしても、付き合い自体は、再考します。ゴータマ仏陀は、慈悲を説くと同時に、【愚か者とは付き合うな】とも言うからです。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>