Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(105-1/2/3)(私家版)

■一想                 食厭想の事。食事の厭な一面を省察して後、生起する所の想。例えば、食を求め探す苦、食べる事、消化、排泄と時の不浄を省察する。古では、比丘は一日一度しか食事しなかった。彼らは、ただ一回の食事の為に、太陽に下、裸足で歩いて托鉢に行き、路上では石に躓くかも知れないし、藤の蔓に絡まって、怪我をするかも知れない。故に彼らは、食べ物を探す事への苦痛を省察して、食べ物への貪を取り去った。彼らは、全ての食べ物を一つの鉢に投げ込んで、食べ物に対する分別心を起こさず、食べ物!への執着心を取り除いた。彼らは口に入れた食べ物を吐き出して、それを確認し、再度食べる事ができるかどうか考えた。この様にすれば、食べ物に対する食厭想が生まれ、食べ物に執着しなくなる。出家者は、時には食べ物はただの四大で出来ているに過ぎない事を省察しなければならない。食べる前は美味しそうても、汚い身体に触れた後、排出されるのは臭気芬芬である。人がトイレから出てくると、笑顔で迎えられる事はない。というのも、不浄であるが故に。こうした事から、出家者は思惟しなければならない:「食べ物はもともと清潔であったが、汚い身体に触れた後、同じ様に汚くなってしまった。」この様に思惟した後、食べ物に対して嫌悪を生じ、食べ物に対して、余り執着しなくなる。食べ物への執着は取り去るのは非常に困難であり、一個の障碍である。        仏陀の時代、弁才第一の女性の外道がいた。彼女は砂の上に木の枝を一本立てて、もし彼女に挑戦したい人がいたなら、その枝を抜く様にと言った。ある時、シャーリプトラ尊者が枝を抜き、彼女は尊者に非常に多くの問題を投げかけた。尊者も又一つ一つ回答した。その後、尊者は彼女に問うた:「一とは何か?」これ程簡単な質問に弁才第一の彼女は答える事が出来なかった。答えは:「食べ物。というのも、民は食を天となしているが故に。」後に、彼女は尊者を師として従った。食べ物は非常に重要な一節である。我々の色身は食べ物を段食として生存し、依存している。故に、食べ物への貪を取り除くのは、容易ではないのである。