Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-24

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

メーチ・ケーウは知っていた。

衆生が悪道に堕ちるのは、憤怒と怨念が、その主要な原因である事を。

この悲惨な訪問客が、憎しみの心で一杯なのを見て、彼女は彼に、心内に怒りを持ち、復讐の考えを巡らす事の危険を、教えた。

彼女は、水牛の神識に警告した。

ネガティブな感情は、来世に、人となって生まれたいという願望と、矛盾する。

もし、本当に人として生まれたいのならば、必ず、これらの有害な煩悩を、コントロールしなければならない、と。

メーチ・ケーウはまた、彼に、五戒は人としての基本であり、もし、人に生まれ変わる機会があったなら、これらの基本的な規範を、しかっかりと守る事を、誓わねばならないとも教えた。

彼女は五戒について、説明した:

その他の生命を殺したり、傷つけてはならない;

偸盗はならず、他人の物を盗る事は許されない。たとえば、他人が菜園に植えた野菜であろうとも;

邪淫もならず、間違った性的関係をもってはならない;

嘘を言い、故意に人を騙してはいけない;

また、酒または精神を混濁させる毒物に、耽溺してはならない。

殺・盗・淫・妄は他人を害するだけでなく、人間関係の基礎ーー信頼と率直さを壊してしまう。

酒と毒物に耽溺する事の危険性は、人の精神を混濁させ、上記の四つの戒を、犯すようになる点にある。

業の見地から言うと、これらの行為は、畜生、餓鬼と地獄に堕ちる、原因である。

これらの悪道にいる衆生は、無量の苦を受け、心霊は薄弱で、善業を修して善道に往生する事が、非常に難しい。

故に、誠心誠意五戒を護持することは、悪道に堕ちる事態から遠く離れることができ、また、同時に、人として生まれ変わる事が、保証され得る。

もし彼が、このように五戒を守ることが出来、身口意の三業において、悪業を為さないならば、大いに期待することが出来るーー今は無理でも、将来において、必ず得ることが出来るに違いないーー彼が渇望する所の人身を。

(4-25につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4‐23

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

彼は認めた:

”私がそのような事をしたのは、無知からです。

私は一日中、田圃で仕事をしましたが、主人は決して、草場に連れて行って、草を食べさせては、くれませんでした。

私はお腹がすいて、見つけたものは、何でも食べました。

私に言わせれば、すべての植物はみな同じに見えて、所有者がいるかどうか、私には分かりません。

私は、ものを盗もうとは思った事はなく、私に人間の言葉が分かったならば、過ちは犯さなかったでしょう。

人は、動物より聡明なのですから、彼らこそ、我々の本性を理解して、我々に、更に憐憫をかけ、我々を許すべきです。

己の能力に恃み、その他の生命を無情に蹂躙する事、特に人の道徳に悖るようなやり方は、許されません。

善人は、このような恥知らずな、罪深い行いは、決してしません。

あなたが言うように、この付近の農夫のほとんどは、善良であるでしょう。

しかし、私のあの主人老通(=ロートン)は、残虐で品格のない人間です。あの人はそれほど無情で、はなから、憐憫とは何かも知らないし、寛容とは何かも、知らないのです。

彼は他人にも冷たく、なにより、動物なんかには、配慮などしないのです。”

この悲惨に屠殺された水牛の話を聞いて、メーチ・ケーウの表情が変わった。

小さい頃から大人になるまで、メーチ・ケーウは畜生の悲惨な運命を、憐憫した。

彼女は以前、毎日、黄牛と水牛に餌をやる時、もち米を一握り食べさせてあげ、彼らの耳元で囁いた:

あなた達は田圃で仕事をするけれど、当然、ご飯をお腹いっぱい食べていいのよ。

動物はこのように可愛がられて、彼女と非常に親しくなった。

たとえば、首に鈴をつける為の紐が切れた時、牛は、直接彼女の所へやってきてそれを知らせ、決して、これを奇貨として、逃げてしまう、などという事はなかった。

今、メーチ・ケーウは理解した。

これらの動物は、たとえ飼い主によって、よりよく待遇されたとしても、過去の業力によって、一生涯、苦労せざるを得ない事を。

(4-24につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-100

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-8-4-5 出入息と禅相

私はすでに、安般禅相に関する解説をした。

長いか、または短い息の全体に専注して、定力が向上する時、あなたの息は、禅相に変る。

Assāsapassāse nissāya uppannanimittampettha assāsapassāsa samaññameva vuttaṁーー元の出入息に依って出現した禅相もまた、出入息と呼ぶ。

故に、あなたは「禅相」もまた、「出入息」と呼ぶ事を、覚えておかねばならない。

禅相が出現して、かつ、安定したならば、あなたの心は、自動的に禅相に、しっかりと密着する。その時、いまだ微細な息が残ってはいるものの、しかし、この時、あなたは禅相に、専注しなければならない。

初禅の時、息は非常に微細になる;

二禅では、更に微細になり;

三禅では、それより更に微細になり; 

四禅では、それは完全に停止する。

完全に停止したとはいえ、しかし、禅相は存在する。すなわち、それが安般似相である。

四種類の禅相は、安般似相を目標として生起する。

そうであるが故に、安般念を通して、定力を育成する事ができる、という訳である。

次に、私は、初禅における「五支(=五蓋)の捨離」「五支の具備」「三方面の善」について、逐一説明する。

8-8-5 五支の捨離

五支を捨離するというのは、すなわち、五蓋:欲欲、怒りと怨恨、昏沈と睡眠、掉挙と後悔、疑い、を捨離することである。

それらが、いまだ捨離できていないならば、ジャーナが生起することはない。

その他の不善法もまた、ジャーナの刹那には捨離されるが、しかし、上記のそれらだけが捨離支と呼ばれる。

というのも、それらは、ジャーナを証悟しようとする時に、特に障礙となるからである。

欲欲の影響を受けて、心が色々な目標を渇求するとき、目標に専注することはない。

ある種の目標が、怒りと怨恨によって干渉される時、それ(=禅相)は、継続して不断に生起することが、できなくなる。

心が昏沈と睡眠によって撃敗する時、それは軟弱で、無力になる。

心が掉挙と後悔に纏わりつかれるとき、心は動揺して安定しない。

心が疑いまたは不確定(=はっきりしない様)によって困惑する時、正確な方法でジャーナを成就することが出来ない。

故に、この五つの項目は、捨離支と呼ぶ。

というのも、それらは、特別、ジャーナの障礙になるからである。

(5-101につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-22

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

これらの禅相の多くは、殺された動物の神識で、彼らは、己の激烈な苦痛を和らげて貰うために、功徳が欲しくて、彼女の所へ、やってきた。

ある日の真夜中、メーチ・ケーウがサマーディから出てくると、今殺されたばかりの水牛の神識が、彼女の前に現れて、苦痛に耐えきれずに泣き叫び、彼の運命について、悲しみの訴えをした。

この水牛の神識は、亡霊のようで、彼女の禅相の中に出現するやいなや、即刻、己の悲惨な過去について語り始めた。

メーチ・ケーウは、心識でもって、彼の話す情報を受け取った。

その水牛は、彼女に、彼の主人は残忍で野蛮な人物であり、少しの慈悲心もなく、毎日、朝から晩まで、彼を追い立てて田を耕させ、車を引っ張らせたが、これまで一度も、彼の苦労を思いやることもなく、いつも鞭で打ちつけ、虐待した、と言った。

最後には、この可哀そうな動物は、木の幹に括りつけられて、残忍に屠殺され、食べられてしまった。

死に臨んで、彼は激烈な苦痛を感じ、頭を何度も強く殴られ、その為に、心裂けんばかり、肺もちぎれんばかりに嘶き、最後には、気を失って、その場に倒れてしまった。

この水牛の神識は、この時まだ、傷の中に浸っていて、前世の形体に執着しており、メーチ・ケーウによって、功徳を回向してもらい、来世には人間になるチャンスを得たいのだ、と言った。

この神識は、メーチ・ケーウの憐憫の心に鑑み、直接彼女に、水牛となって生まれた事によって受けた苦痛を訴え、水牛が忍従しなければならない、人間による野蛮な行為と、無情の虐待について申し述べた。

人として生まれたからには、たとえ貧苦で下賤であっても、畜生ほどには、虐めと侮辱を、受けたりはしない。

故に、水牛は、来世、人間になる事を、渇望した。

メーチ・ケーウは非常に驚いて、本当に、そのような残忍なことがあるのかどうか、訝った。

彼女は、近所の多くの農夫を知っているが、皆善良で、気の良い人たちばかりであった。

禅相の中で、彼女は水牛に対して、自分の疑問を伝達した。

水牛は自分の主人は残忍で野蛮な人であり、称えるべき人格などないのだと、言い張った。

そうではあっても、この水牛の心内は、恨み心で一杯であり、事実を歪曲している可能性があり、または主人が彼を打ったのには、理由があったのかも知れない。

彼女は率直に、彼に聞いてみた:

”あなたは他人の畑の作物を食べた事はないですか?

それとも、田圃の側の野菜を食べた事はないですか?

このあたりに住む農夫は、皆善良で、あなたが悪い事をしていないならば、なぜに虐待することがあるでしょうか? 

私は、あなたが何か間違ったことをして、罰を受けたのだと思いますが、違うでしょうか?”

(4-23につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-21

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

禅定は、彼女を、とある一つの出入口に、導いた。

ここでは、異なったエネルギーのフォースが、彼女の心を引き付け、彼女の注意を促した。

アチャン・マンは、かつて、これは近行定であり、このレベルの定は、異類の衆生の心霊のエネルギーに遭遇する事によって、彼女は、容易く傷つけられてしまう、と言って忠告した。

同時に、彼女に、彼女がこの出入口に入り込む前、必ず、しっかりと、己の心をコントロールできる能力を、身につけておかねばならない、とも言った。

メーチ・ケーウは、アチャン・マンの言葉をしっかりと胸に刻んではいたが、彼女の生まれつき、好奇心が強く冒険好きな性格によって、心は、誘惑に負けて、つい、探検に出かけてしまうのだった。

出入口を出た後に見る光景は、彼女を恐怖に陥れ、また夢中にもさせた。

身体のない、非常に大きな神識の群れが彼女を取り囲んだーーある者は叫び、ある者は泣きーー彼女に対して、彼らが過去において為した数々の悪業を、解消して欲しいと、哀訴した。

多くの顔と体がぴったりと彼らに吸い付いていたが、これらは過去世の命の残渣であり、それはまるで、いまだ終了していない旅程における、死の烙印のようであった。

この種の神識はすべて、彼らの住む暗黒なる一角を照らし、彼らに希望を与えて貰いたいが故に、彼女に憐憫を乞い、注目され、守ってもらいたい、と思っていた。

(4-22につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-20

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

人会受苦是由于執着放不下、

(執着して、手放そうとせず)

老是不満足。

(いつも、なんにでも、不満をかこつ時、人は苦しむ)

好々観察自己的心、

(よく己の心を観察して)

学習怎麽捨棄苦的原因。

(どのようにすれば、苦の原因を、捨て去る事ができるのかを、学ぶべきである)

 

別世界への出入口

皐山に住んでいた時、メーチ・ケーウは、深夜に瞑想していると、よく、各種の特殊な境界を経験したが、それは、今まで聞いたこともないような、普通では考えられないような、事柄であった。

深い定から、少しだけ退出すると、メーチ・ケーウの心は、彼女が熟知する所の、心霊のエネルギーが交差する世界に、入ることができた。

この世界は、異なる領域をもっており、色々な心霊レベルの衆生がいて、ある者は暗黒、低いレベルの領域から来ており、過去の悪業の苦の果を、受け取っていた:

ある者は、光明の世界、高尚なる領域から来ており、それは天人、または梵天に属する者であった。

(4-21につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-19

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

水汲みというのは、重労働である。

毎日毎日、重い足取りで、登り、下り、また登り・・・、メーチ・ケーウは、疲れを知らぬかのように、同じ労働を繰り返した。

重労働にあっても、道心は揺らいだ事はなく、彼女は世俗の逆境を、修行上の増上縁にしようと決心し、道を歩くときは ”ブッーーダ” ”ブッーーダ” と一文字、一文字黙然し、やがて黙然すれば、たちまち心が平静になり、天秤棒も軽く感じられるようになり、作業にあたって、それほど疲れる事もなくなった。

メーチ・ケーウにとって、心の扉が開いた後、水汲みは簡単な労働となった:

それは、身の丈にあった、ちょど良い分量の仕事を、この時この場でこなし、一歩の次は、また一歩歩む、ただそれだけのことだ、という認識を、明白に、得る事ができたが故であった。

メーチ・ケーウの兄たちが、状況を探りに、皐山に来た。

彼らは彼女の暮らしぶりをみて、その辛苦のほどに、震撼し、驚いた。

彼らは深く妹を愛していて、彼女の苦労を減らす為に、苦しみは共にという精神を発揮して、尼僧たちが、水を汲んで、山道を往復するのを、手伝った。

しかし、六人の男性と五人の女性が使う水の量は、半端なく、最後には、彼らも疲れてしまい、先ほどまであった<やる気>も、消え失せた。

彼らは、メーチ・ケーウに、卉晒寺に戻るよう勧めた。そこにいれば、少なくとも、兄たちが、何程かの援助を、する事ができるから。

彼らは彼女に、布麻は再婚し、家を売り払い、ちびっこケーウと家人を連れて、新しい町に引っ越して行った事を、告げた。

メーチ・ケーウは、それを聞いても、心を動かされる事はなく、アチャン・カンパンと共に、皐山で清貧なる修道生活を送る事に、決めた。

暫くすると、新しく建てた寺院は、初歩的な姿を現したが、しかし、本当にここに住み続けるのだとしたら、水源が一番の問題であった。

彼れらは、近所の山々を調べつくしたが、それでも、水源を見つける事が、できなかった。

万策尽きたかと思われたその時、ある日の夜、結跏趺坐して、背筋を伸ばし、己の内部に向かって専注していたメーチ・ケーウは一つの、つつましい願をかけた:

もし、我々が皐山で暮らし続けてよいのならば、どうか、お寺の近くに、水源を見つける事ができますように。

そして、そのまま、いつもの通り、瞑想した。

夜も更けた頃、彼女の心は深い定から出て来ると、一つの禅相が、自然に浮かび上がった。

それは、藤の蔓と背の高い雑草が、12面の池の上を覆いかぶさるように、生い茂っている、というものであった。

彼女はこれがどこであるかを知っていた。

というのも、かつて何度もこの付近を歩いたし、洞窟からは、遠く離れては、いなかったから。

次の日の朝、メーチ・ケーウの申し出により、尼僧たちは、彼女の指示に従って探索に行き、厚い水草に覆われた池を、幾つも発見した。

皆は意外な出来事に喜び、アチャン・カンパンは、メーチたちと当地の農民とで、藤の蔓と水草を取り除き、池の堆積物を浚うよう、指示を出した。

堆積物は、非常に多かった。

池を浚って、綺麗にした後、これらの池の水は、寺院が通年使っても、涸れるということはなかった。

(4-20につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>